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雑 感 (2021年08月) | 雑感(目次)へ 随筆のページへ トップページへ |
ありがとう!IMS! | 日本国民の危機意識の欠如 |
卑怯な鳥・カッコウ | コロナ禍の美術館 |
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日本国民の危機意識の欠如 | ||||||||||||||||
以下に記載する言葉の数々は、国家の主権を守るための有識者たちの言葉である。
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卑怯な鳥・カッコウ | |
ニック・デイビス著/地人書館発行 |
文・絵・松田喬、内田博/あかね書房発行 |
今、生きている鳥の中で“カッコウ”ほど卑怯(ひきょう)な鳥はいない。まずカッコウという鳥は、「閑古鳥(かんこどり)」と言われ、「かんこ鳥が鳴く」という慣用句は「商売などで客が来ない、繁盛していない」さまを言うように、悪いイメージの鳥である。あのダーウィンをして「奇妙で忌まわしい本能」と言わしめた。そのほかにもイギリスの生態学者も「母性的愛情に対する恐るべき辱(はずかし)めで、本能へのかくもひどい暴力」といい、一般的にも“愛情のない生き物の象徴”のような認識である。その印象を与えているのが「托卵(たくらん)」という行為だ。他の鳥の巣へ卵を産み、その宿主(仮親)に巣立ちまで育てさせ、親として子どもの面倒を一切みない。托卵をする鳥は他にもいる。イメージとは全く違うが、やはりカッコウ科の鳥で“ホトトギス”もそうである。 カッコウの托卵と、それを見破り防衛する宿主との攻防は何世代にもわたって続く。これを“軍拡競争”と表現している。まずカッコウは、宿主のいない時間を見計らって素早く托卵する。産卵にかかる時間は、ほんの数秒だという。宿主も自分の卵と大きさや模様が違えば、さすがに気付く。カッコウの卵はすぐ放り出される。そこでカッコウは、宿主の卵に似た卵を産むように進化(?)する。例えばフィンランドのジョウビタキは、似ていない卵は放り出すので、カッコウは、宿主に似た青い色の卵を托卵する。カッコウ本来の卵の形態とは全く違う青い色の卵を産むまでの進化は、長い時間を要するだろう。そんなことにエネルギーを費やすより、本来あるべき母性本能によって自分の子どもを大事に育てることの方がはるかに楽なように思うのだが。 カッコウは自分のお腹で、宿主の卵より1日長く抱卵する。その分カッコウのヒナは宿主の卵より早く産まれる。そのヒナは、生まれたばかりで、目も満足に見えない状態で、宿主の卵を必死で放り出す。カッコウのヒナは、背中が卵を乗せやすいように少しくぼんでいるという。こうして宿主がせっせと運んでくるエサを一人占めして、大きく育つのである。カッコウは産まれながらに忌まわしい能力を備えている。成鳥になっても、その根性は変わらない。カッコウは鳥類の中でも極めて弱く防衛力の無い鳥だと言う。だから近縁種ではないが、猛禽類のタカに似せている。形、羽、飛び方を似ているという。タカから身を守ることと、宿主たちへの威嚇という両面から進化したのだろう。強い鳥に似せ、他の鳥に巣に卵を産み、ヒナは宿主の卵を放り出し、エサを一占めして成鳥になる。カッコウの一生で、評価すべき点など一つも無い。 そもそも私がカッコウの生態を知ったのは、オーストラリアに生息する“ワピピ”という鳥の存在である。カッコウのヒナは、早く産まれて宿主の卵を放り出すわけだが、ワピピは、その前にカッコウのヒナを引きずり出して捨てる。このワピピの巣では、巣の乗っ取りが成功することはほとんどないという。カッコウのだましを見抜く能力をワピピがもったことで、カッコウが生き残る確率は2%もないという。まあなんとも留飲が下がる話である。オーストラリアでは、かっこうと宿主の軍拡競争が昔からあったため、進化の時間が長く、卵の時代の攻防を経て、ヒナの段階での防衛とだまし合いにまで進んだのではないかとしている。しかし、どんなに苦労しようが、カッコウに自分で愛情をもって子どもを育てるという選択肢は無い。ひたすら“だまし”のテクニックを磨くことにまい進するのである。 |
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コロナ禍の美術館 | |
コロナウィルスの二回目のワクチン接種が終って1週間。抗体が出来たと思われ、ほっとしている。だがデルタ株による第5波が蔓延している今、決して安心できる状態ではない。とはいえ、久しぶりに福岡市美術館に行って来た。今回「新しい美術館像」をテーマにシンポジウムが開催されたのだ。またアーティストのKYNEさんが、去年、美術館の巨大な壁に描いた作品も観たいというのもあった。訪れるのは、ほぼ2年ぶりである。美術館もコロナ禍による休館を余儀なくされ、大きな影響を受けた。それまで多くの来場者がいた会場に誰もいない。この美術館員の悲痛な言葉に計り知れない失意を感じる。このコロナ禍、これまで心血を注いで研究、企画、展示してきた人たちが、どれほど苦しみ葛藤してきたのか。美術館の社会における役割を、改めて考える機会でもある。 福岡市美術館の前庭には、巨大なオブジェが出現した。ジョニバレ氏の作品「ウィンド・スカルプチャー(SG)U」である。この作品は、多様性や交流を象徴しているという。パンフレットには、この作品の公開を以って福岡市美術館のリニューアルが完成したとある。さて問題は打撃を受けている展覧会である。これまでは新聞社との共催などで、大量の動員をし、その収入で更に新たな企画展を開催してきた。2019年には約20万人が訪れていたというが、コロナ禍で、国家間の往来が出来なくなり「ボストン美術館展」が中止になるなど、収入は極端に減少した。そんな極端に限られた中で出来ることは何か。2020年3月から「オンライン大作戦」として、「オンラインギャラリートーク」や「オンラインワ−クショップ」などを開催したという。しかし、これまでの来場者の6〜7割は中高年の女性だったことを考えれば厳しい状況であったことは間違いない。 シンポジウムは始まる前、コレクション展を鑑賞してきた。子どもの頃の懐かしい風景の作品の前では、その絵に溶け込んでいくようでもあった。バスキアの作品は、一瞬でバスキアと分かる部分があった。この作品を前に、彼が激しく燃焼し駆け抜けた短い人生に想いを馳せ、作品と対話し胸に迫るものを感じた。コロナ禍で遠ざかっていた美術との対話は、本当に久振りの感覚であった。シンポジウムでも「美術館が生活にとって必要を感じさせる1年だった」という発言があった。鑑賞と体験を通して、自分との関わりや、自ら社会の一員として存在する感覚を見いだせる。コロナ禍において他者との共感、共生により共に乗りきる力となるとの意見だ。確かに自分が感じた感覚と重ねると納得するものだった。 感覚は我々の生死をも左右する根源的なものである。人類はその進化のなかで「心」を持った。それは思考や芸術など高度な精神文化とも密接に結びついている。脳が正常な働きをするには、感覚器官からの適度な刺激を必要とする。コロナ禍は、何一ついいものは無いが、ただ一つ“けがの功名”があるとすれば、我々に美術、芸術の大切さを気付かせてくれたことだ。コロナ禍もいつまでも続くものではないだろう。そのうちインフルエンザのような存在になる。その時が来るまで、今、一番つらい時である。いずれ美術に渇望した人たちが美術館にやってくる。そのときは恐らくこれまでの展覧会とは違って、作品との会話を楽しみ、作品の中に溶け込む人たちが多く見られるに違いない。頑張れ!美術館! |
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