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秋元久英のホームページ「 アイドルタイム 」

このホームページは、私にとって「自分史」である。人間は誰しも歴史があり、その人生がどういう人生であれ、本人にとってはかけがえのない歴史である。この「無限」の宇宙の中で、その存在は限りなく「無」に等しいが、その中にあって、自分自身のみが、その存在を認識できる唯一の生命である。「永遠」の時の流れの中で、ほんの「一瞬」を生きた証をこのホームページに残したいと思う。完璧でないところに人間の個性がある。つたない文、至らないところ、そのすべてが私である。

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2015/09/26

   四コマ随筆『魂活』より



はっきり「死を認識」できているのは人間だけである。

では霊長類の歴史の中では、いつから「死の認識」というものがあったのだろうか。

猿人、原人の時代にはその形跡はない。

ネアンデルタール人の時代になってはじめて埋葬をした痕跡が認められる。

遺体には花が添えられていたというから、極めて現生人類の心に近いものがあったと思われる。

巨大な脳を手に入れたことによって、強い絆の人間関係が出来できていたに違いない。

その後に出現した我々ホモ・サピエンスは、さらに高い言語能力、知能、想像力によって、

食物連鎖の頂点に立ち、文化や科学を発展させた。

現在の日本文化の源流は縄文時代にある。

縄文人は自然の恵みに感謝し、自然とともに生きていた。

自然によって生かされ、「死」によって自然に還り、来世の再生を信じていた。

縄文人たちの高い精神文化に基づく死生観は、三内丸山の環状配石墓などにも見られよう。

他人の死によってつくりあげられた「死の認識」は、

想像的な能力によるものであり、それこそが人間の証といえる。

細胞の中心には「核」があり、生命活動の重要な役割を果たしている。

その中のDNAには、生き延びるために学習した貴重な経験が刻み込まれている。

一方、巨大な脳を手にした人間は、その中心に「心」を持ち、豊かな精神活動を送っている。

それは「魂」という「心」の深い根源的な部分まで認識する。

輪廻転生を繰り返す魂には、心の深い部分に沈みこんだ記憶が、

その都度、魂のDNAに刻み込まれていく。

人間は、単なる細胞の乗り物などではなく、むしろ魂が現世に現れるための拠り所なのだ。

現世における個体が終わるとき、現世の記憶はリセットされ、

本質だけになった魂は個体から離脱する。

離脱した魂は、決定された来世に相応しい個体を拠り所に再生する。

次に用意されたその人生は最高レベルなのか、次のためのステップとしての人生なのか。

その人生がどのレベルに設定されているのかによって、

相応しい個体とそれを取り巻く環境を見定めるのである。

これを「魂活」と言うことにする。
2023/06/20