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雑 感 (2019年09月) | 雑感(目次)へ 随筆のページへ トップページへ |
74年を生きて | |
結婚50年 | 敬老の日に思う |
人間原理 | 異次元からの制御 |
一寸の虫にも五分の魂 | セミの一生 |
74年を生きて |
哲学者・エピクロスは『死はわれわれにとって無関係である。なぜなら、我々が現在するときには死は現在せず、死が現在するときにはわれわれは存在しないからだ』と言った。確かにそうではある。ではなぜ「死」を人間はこれほどまでに意識するのだろうか。それは生物としての人間が、「種(しゅ)」を保存するため、危険を回避し生き延びるため、細胞が「死」の恐怖を与えたのだ。もう一つは人間が、他者の死を自分に重ね合わせる想像力を持っているからである。この未来を予測する能力を持っているのは人間だけである。「死」は生者にとってのみ存在する。 人間は一生物種として命を繋いでいる。生命の条件は「新陳代謝」と「自己複製」である。栄養を外部から取り入れ、生きるためのエネルギーとし、生殖細胞によって「不死の生命」を獲得した。生殖細胞の役割を果たすために、個体は「動的平衡」によって維持される。「常若(とこわか)」という日本古来の言葉がある。伊勢神宮が式年遷宮によって新しい姿を永遠に保ってきたことを表す言葉である。人間の体もまた同じで、常に新しい細胞に入れ替わり、一年前とは全く違う細胞で構成しながらも変わらない姿を保っている。しかし、生殖細胞による自己複製が終わり、DNAが次世代に引き継がれることによって個体の役目は終わる。 ネアンデルタール人は、死者を埋葬し花を供えていた。10万年前、ヒトはすでに我々と同じ「心」を持っていたのである。大津皇子が謀反(濡れ衣)の罪で処刑された後、姉の大伯皇女はこう歌を詠んだ。『うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む』。人間は身近な人の死を深く悲しむ「心」を持っている。この「心」こそ人間の人間たるところである。そこには他者の「死」を悼むという人間らしさがある。その「死」を前向きにとらえることで人生は豊かになると言った哲学者もいる。哲学者・ハイデッガーである。『「死」は「生」に限られた時間をもたらす。明日死ぬかもしれないという可能性を受け入れれば、時間は価値あるものになる。本来の可能性に自分自身を投じることができる』。ここに人間の本質がある。 そもそも個体としての人類は、おそらく滅亡する。50億年後には、地球そのものが太陽の終了とともに終わりを告げる。我々を組成していた素粒子は、宇宙を漂い、また新しい天体を構成するだろう。そう思えば「自分が生きることにどんな意義があるのか?」という問いかけには“むなしさ”が漂う。しかし、生命がこの世にある限り、「魂」は生き続ける。「人間は何のために生きるのか」。それは現世に目的をもって現れたからである。魂は前世から現世の個体に着床するとき,現世でなすべき使命を与える。その目的を遂行するためのレベルと能力を持って現世に現れるのである。 ではその目的は何であるか。知っているのは魂だけである。我々は分からないながらも、それを踏まえて、必死に前に進まねばならない。それこそが人生の意義である。「死」を前にして、人生を振り返ったときに、生きてきた足跡を辿れば、現世に与えられた目的が何であったか見えるはずだ。少なくともヒトは、目の前の道を全力で駆け抜けることが責務だと言える。私は以前こう書いた。『私の生きる目的は「しっかり死ぬこと」である。それはつまり「しっかり生きること」でもある。しっかり生きることによって、しっかりした死を迎えることができる。言ってみれば走り幅跳びみたいなものだ。力強い助走(人生)があってこそ、力強い踏切(死)ができる。心身(心=魂、身=素粒子)が高く空(宇宙)を舞い、(魂は次の生命へ)着地する』 |
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結婚50年 |
結婚して50年。「あー、もうそんなになるか」。主観的な時間の感覚では“あっという間”であるが、一つ一つの記憶をたどれば、確かに客観的時間は半世紀が過ぎている。平均的な寿命を生きても30000日、今、私は27000日を生きてきた。そのうちの18000日を共に過ごしたことを考えると、伴侶に恵まれたことは、実に幸せなことであった。健康で、明るく、笑いの絶えない妻である。出勤するときの「いってらっしゃい!」、帰宅したときの「おかえり!」という元気な声が、どれだけ心をリセットさせてくれたことだろう。 憲法24条には「夫婦が同等の権利を有することを基準とし、相互の協力により維持されなければならない」とある。定年退職して5000日。退職後の心得は、まず夫婦は同じ土俵に立っているということをしっかり踏まえる必要がある。長い間家を守ってくれた感謝の気持ちは、行動で表したい。まず、妻から何か頼まれたら、“二つ返事”で何はさておいてもやる。“いやいや”やるのも、フットワーク軽くやるのも結局やることは同じ。どうせやるなら気持ちよくやろう。それから料理を覚えよう。私は、少しずつレパートリーを増やして、今では1か月分くらいのメニューを持っている。少しでも家事に携わると、家事は終わりのない「賽の河原」であることがよくわかる。「男の料理」などと粋がっているのは迷惑でしかない。 ロシアの文豪・トルストイは「人生論」に「幸福」について『幸福を望む力は、人を向上させる力であり、時間にも空間にも縛られない生命力そのものだ』と書いている。先日のテレビ番組「72時間」で訪問看護の密着取材をしていた。そこで看護師さんがこう言っていた。『幸せって何だろって・・・・すごく小さな幸せを一緒に見つけられるような存在で関われたらいいなって・・・・』。その小さな幸せが本当に生きる力になっているのが画面から伝わってきた。「幸福」とはきわめて“精神的な豊かさ”であることは間違いない。その人がどこに幸福を見つけるか、人によって違うが、少なくとも贅沢は一時の虚栄心を満たすだけである。 私たち夫婦は、特にイベントらしきことをほとんどしない。「結婚50年だよ」と言ったら「あら、そうね」と言っただけだった。還暦も古希も、通り過ぎてからそういえばそうだったなと思ったくらいだ。何かあったと言えば、退職した日に妻から、花一輪と「長い間お疲れ様」という短いメッセージをもらったくらいかな。今は何気ない一日が過ぎている。前にも書いたが『バラエティ番組を見てはともに笑い、クイズ番組を見ては答えを競い、ニュースを見ては意見を闘わせる』そんな一日である。昨日に続く今日であり、今日に続く明日である。そんな平穏な一日にこそ幸せがある。 |
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敬老の日に思う |
昨日(9/14)の新聞報道によると、今年全国で100才以上の高齢者が、49年連続増加で7万人を超えるという。平成の30年間で約23倍になったというから、この勢いだと、あと数年で100才以上が糸島市の人口くらいになりそうだ。この背景には医療技術の発達、生活環境の向上、健康志向の高まりなどがある。長寿はめでたいことだが、一方で少子化が進み、労働生産人口の減少で、現在の公的年金制度の「仕送り方式」は厳しくなる一方だ。テレビでは健康食品、健康グッズの通販番組が花盛りである。保険料の増加を抑えるため、市販の薬で対応できるものは、保険適用外になるというのも致し方ないのかもしれない。 |
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人間原理 |
人間という知的生命体は何故この宇宙に存在し得るのか。それは宇宙が初期段階において人間が存在し得る物理定数をとったからだという。物理定数だけではない。太陽系の中で地球がハビタブルゾーンに位置したことなども考えると、この宇宙は知的生命体・人間の出現に向かってひたすら進んできたようにみえる。つまり人間という知的生命体は、必然的にこの宇宙に生まれたということになる。これが「人間原理」と言われるものである。だが人間原理という表現に疑問を呈する意見もある。それは「生物存在原理」というべきではないかという意見である。 そもそも地球上には、まずバクテリアが現れ、それが進化し、動物、植物、菌類へと枝分かれしていく。今、地球に存在する生物は、基本的に同じ構造の細胞によって作られている。その生物を構成している元素を、「細菌類」と「哺乳類」と比べてみると、驚くほど似ている。どちらもO(酸素)、C(炭素)、H(水素)、N(窒素)だけで、ほぼ90%を占める。しかもこの元素は、大気・海洋・岩石という地球上ならどこにもあるものから取り入れられている。さらに、マウスとヒトの遺伝子の組成はほとんど同じで、あのアブラムシでさえ「性」の決定は、人間と同じ染色体で決まる。 生物の存在は地球だけとは限らない。近年、地球外生命体発見の可能性が高まっている。太陽系で期待されているのは、「火星」や木星の衛星「エウロパ」や「ガニメデ」、土星の衛星「エンケラドス」や「タイタン」などである。一番可能性が高いのは、液体の水、有機物とエネルギーといった生命の条件が確認されている「エンケラドス」かもしれない。このように太陽系だけでも、生命が存在する可能性が高い天体がある。ましてや宇宙全体では、その可能性は限りなく広がりそうだ。我々が生きる宇宙の物理定数は、人間だけでなく、等しく生命を育んでいる。 とはいうものの地球という生命の宝庫でさえ、知的生命体としての生物は人間だけである。ホーキング博士はこう言った。「ただの素粒子の集まりに過ぎない私たちが、この世界を支配する法則や宇宙をここまで理解できるようになったということは、偉大なる勝利です」。やはり奇跡的な知的生命体・人間は、宇宙でも稀有な存在である。哲学者・ハイデッガーは、人間を「現存在」だと言った。それは人間が生きることであらゆるモノの存在の意味を表すからだとしている。それを広く考えれば、この宇宙を認識する人間という意味において「人間原理」は存在する。 |
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異次元からの制御 | |||
私がこのホームページを始めた頃、「異次元からの制御」「ゼロバランス理論」という二つの随筆を書いた。その内容は概ね次のようなものだった。(当時作成したイメージを下に掲載しておく) 「異次元からの制御」:三次元の存在こそが唯一の実像であり、時空を超えてコントロールしているのは自分自身である。異次元での戦いの結果がそのまま、我々の人生を決定づける。修正するのは23日後の未来である。 「ゼロバランス理論」:人生のレベルは「前世」「後世」通じてゼロでバランスする。「現世」におけるレベルは決定しているが、「正のエネルギー」と「負のエネルギー」が微妙に交錯し「ゆらぎ」ながら、「無」の状態を保っている状態である。従って「正のエネルギー」を得るためには、物理的苦痛、精神的苦痛といった「負のエネルギー」でバランスさせなければならない。 「異次元からの制御」は、その後に得た「ホログラフィック原理」という知識でうまく説明できるように思う。それを踏まえて説明すると次のようになる。 まず現在時点の実像(四次元)としての「自分」が存在する。この「自分の分身」が、時間の壁を破って23日後の未来のへ飛ぶ。そこの仮想現実で危機に直面することが分かると、「量子のもつれ」で、現在の「自分」の潜在意識と情報を共有する。実像の「自分」は、何が起ころうとしているか分からないが、痛みだけは現実に起きる。その危機に対処する「正のエネルギー」を作るために、「負のエネルギー」が必要になるからだ(ゼロバランス理論)。例えばその危機が重大であれば、のたうち回るような強烈な痛みが1分ほど続く。こうして出来た「正のエネルギー」の重力波で、五次元の重力理論を書きなおす。五次元の重力理論は、四次元の量子場に投影される。つまり私が見ている四次元の立体的な世界は「ホログラフィック理論」による幻影である。「現実」とは、私の感覚器官が集めた情報を、脳が「現実」として捉え処理したものに他ならない。 |
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追伸:2022年ノーベル物理学賞(2022/10/07) |
今年の物理学賞は「量子力学の基礎研究」の成果により3人の科学者に贈られた。3氏は原子や電子などに「量子のもつれ」という状態が存在することを実験で確かめ、量子情報科学という新しい分野を拓いた。西日本新聞には「量子のもつれ」について次のように書かれていた。
『原子などの極めて小さな単位の世界では、私たちが普段利用している古典的な力学では説明できない新たな物理現象が生じる。「量子のもつれ」もその一つだ。ペアになってもつれた粒子は、どんな遠くに離れていても一方の状態が分かると、もう一方の状態も瞬時に決まり、あたかも情報が瞬間移動したかのように見える。「量子テレポーテーション」という現象が起きるとされる』 |
一寸の虫にも五分の魂 | |||
彼らも必死で命を繋いでいる。今、生き続けているということは、彼らの細胞が環境に適応し、生きる術を獲得しているということである。 | |||
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セミの一生 | |||
@-1 |
@-2 |
A-1 |
A-2 |
ある日の夕方、私の住むマンションのエントランスに、セミが仰向けにころがっていた(@-1)。かなり弱っていて足は動かすことができるが、羽根をバタつかせて起き上がる力は無いようだった。近くに落ちていた木の枝を差し出すと、これにつかまったので、近くの木にとまらせてやった(@-2)。気になって翌朝見に行ったが、もうそこにはいなかった。おそらくこの世に生まれて、自分の果たすべき使命は果たし寿命が尽きるのを待つ状態だったのだろう。 このセミ(A-1)もまた、ごく浅い人工の池の中で、仰向けになっていた。半分水に浸かっていたので、てっきり死んでいるものと思ったが、近づいてよくよく見ると、かすかに足を動かしている。小枝を見つけて差し出すと、かなり弱ってはいたが枝につかまった。近くの木にとまらせようとしたが、もうとまる力も無かった。そこで木の枝分かれしているところに乗せてやると、ようやく木にしがみついたが(A-2)、もはや動くだけの力も残っていなかった。 過日、テレビのチャンネルを回していたら、偶然「セミオトコ」というドラマを放映していた。そではこんな会話が交わされていた。 『セミはたった7日しか生きられないんだ。もっと生きたい、生きたいって泣きながら死んでいくんだ』 『それは違うな。セミはこの世界は何て素晴らしいんだろうって、幸せを感じて歌いながら生ををまっとうするんです。7日しか生きられないんじゃない。地下で何年も生きてきたし、だから7日しかではなく”7日も”なんです』。 『仕事とは生きることだ。・・・・又仕事とは生きるために必要な役割のことでもある・・・・』 サケは産卵後すぐ死んでしまう。次世代へ命をつないで、使命を全うして死ぬのだ。私が見たセミもまた、使命を果たし、従容として死に就いたと思いたい。サケが川を遡上して使命を全うするのはほんの一握りである。セミについてはどれくらいの確率かは知らないが、やはり命を繋ぐまでには数々の危険が待ち受けていることだろう。地上に出てわずか一週間、使命を全うすべく必死で求愛する。我々は鳴き声が”うるさい”などと言うが彼らは命がけで鳴いている。生きとし生けるもの、皆そうした節理の中で生きている。 |
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