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File No.101101

昨日(10月31日)、福岡地裁で催された「裁判員制度を学ぼう」という法の日週間のイベントに参加した。募集定員は50名だったが、ほぼ応募者全員が出席していた。構成の年代は適度にばらけていたが、特に目立ったのは、女性が多かったことだ。イベントでは、裁判員に選任されて、判決を下すまでの一連の流れに沿った詳しい説明や、実際の評議室や法廷の案内があった。最大のイベントは、参加者がそれぞれ裁判員や裁判官、検察、被告、弁護人、証人などに扮し、シナリオに従って、模擬裁判(上の写真)を行ったことだ。法廷の雰囲気、進行などを理解するには実にいい企画だった。最後に、実際の裁判官への質問コーナーもあり、活発な質問が飛び、これもまた有意義であった。昨年9月からスタートした福岡県の裁判員裁判であるが、対象裁判が64件ありいづれも円滑に実施されたそうだ。11月中旬には来年度の裁判員候補14600人が名簿に登載されるという。県民の281人に一人が選任される。もし私が選任されれば、国民の義務として、積極的に参加するつもりである。

折しも今日、裁判員が初めて「死刑」と向き合うことになった「耳かき店員殺害事件」の判決が下された。評議の結果、判決は「落ち度のない2人を惨殺した責任は重大だが、動機は極刑にするほど悪質ではなく、被告なりに反省している」として、「極刑」を回避し「無期懲役」とした。私としては誠に残念な判決と言わざるを得ない。報道からだけの情報ではあるが、この事件の経緯を見るに、計画的かつ冷静な行動で、強固な殺意が感じられる。被告は3つもの凶器(ハンマー、ナイフ2本)を準備し、音をたてないように玄関を開け、靴を脱いで侵入。抵抗も出来ない78才の鈴木さんをハンマーで殴り、ナイフで10数か所もメッタ刺しにしている。まるで戦車で踏みつぶすがごとくの犯行である。この凶悪な犯行後にあっても、なおかつ音をたてないように2階にあがり静かに江尻さんに近づく。「やめて」と言う江尻さんに、ナイフが折れ曲がるほど、力まかせに突き刺している。裁判員に示された犯行現場は、目を背けるほどの惨状だったという。被告の一方的で身勝手な動機により、まったく落ち度のない二人を惨殺した犯行は「極刑」に値する。

判決では「被告なりに反省している」としているが、裁判員の一人は「被告が確実に反省しているとはいえず・・・私からみて"反省がないな"と感じた」と言い、別の裁判員は「・・・被告が反省を深めるという保証は100%ではない」とも言っている。恐らくではあるが、二人を惨殺したことからして、逮捕された時から、「死刑」ということが頭にあったはずだ。弁護人は当然、罪は認めて、死刑回避に全力を注ぐ作戦をとったのではないか。しかし、被告が毎日ご遺族に手紙を書いているにもかかわらず、ご遺族には反省が感じられなかった。それどころか実態は、事件に正面から向き合おうとはせず"死人に口なし"の態度であったという。自己中心の被告にすれば、自分が店に予約を入れたのは江尻さんの責任であり、侵入したときそこに居た鈴木さんこそが悪いとでも言いたいのか。どこが「極刑にするほど悪質ではない」と言えるのか。被告に人権があるのなら、突然無残にも奪われた被害者二人の人権はどうなる。さらに、被害者家族が一生背負いっていく、精神的な苦しみの重大さは考慮されているのか。

裁判員制度は、裁判員が参加し、下した判決は重視するとしている。高裁は裁判員裁判の判決を覆えさない傾向にあり、これまで検察の控訴率は極めて低いという。これは当初から懸念されたことではあるが、三審制を歪めていることになる。私としては今回の事件を、検察が控訴し、一から徹底的に審議してほしい。この重大な事件を一審だけで終わらせていいものか。ご遺族の「一方的に憎まれて殺害される…。こうしたことでは、女性は社会でいったいどうやって生活すればよいのでしょうか」という言葉の重みに応える必要がある。あるテレビで言っていたが「国民一般の処罰感情として、どれくらいの刑であれば、国民が正義が回復したと考えるか」ということである。裁判員裁判の法律では「政府は、この法律の施行後三年を経過した場合において・・・検討を加え・・・所要の措置を講ずる」となっている。今回の判決に疑問を持ったのは、私だけであろうか。もし再審で、判決が覆るようなことになれば、裁判員制度そのものの在り方も問われることになる。同条項に「刑事裁判の制度が我が国の司法制度の基盤としての役割を十全に果たすことができるよう」とある。裁判員制度はまだ始まったばかりである。

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2010/11/11 「耳かき事件・控訴見送り」
今日の新聞に「耳かき店員殺害事件」について、検察が控訴を見送る方針と出ていた。これで検察側・弁護側双方が控訴しなければ、16日に「無期懲役」が確定する。 裁判員裁判は、全くの素人が、死刑求刑のような重大な事件を裁く。その法の知識のない一般市民の考えを尊重して、基本的には控訴をしない。つまりどんな重大事件も一審だけで終わることになる。

裁判員裁判では、日程を短くするために公判前手続きで、裁判官・検察・弁護人が一堂に会して、証拠を検討し、争点をまとめ上げる。しかも、公判前手続きで検討した証拠以外の証拠は、基本的に裁判では使用しない。つまり、裁判員が参加する前に、証拠は確定され、ストーリーは出来上がってしまっている。この状況で "ど素人"の裁判員が、プロの裁判官3人を前に、迎合せずプロ以上の眼力をもって、ストーリーを覆すだけの判断をなし、その意見を毅然と主張するなどということが可能だろうか。

「三審制度」を辞書で引くと「裁判の慎重を期するため、訴訟当事者に、同一事件で異なる階級の裁判所の審理・裁判を3回与える制度」と書いてある。重要なのは、プロの裁判官が下した判決でも「慎重を期すため」3回の裁判を経て確定するということである。しかも、審理を重ねるごとに、判決が覆ることは珍しいことではない。また、原判決を破棄して「差戻し」などというのも多々あることだ。

裁判員裁判では、「死刑」という耐えがたい精神的な重圧を受けながら、散々検討し尽くされた証拠を見せられ、何が何でもその場で判断を迫られる。そして下した判決はほぼ最終判決として確定する。これで日本の裁判制度は事実上「一審制」になったと言える。これは本当に正しい判決を下したと言えるのか。しかも、その判決が判例として、他の裁判に多大な影響を与えるとすれば更に問題は大きい。
2011/03/31 東京高裁が、裁判員判決を覆し実刑
“覚せい剤取締法違反”の裁判員裁判“初の全面無罪”となった控訴審で、東京高裁は一審を破棄、懲役10年罰金600万円を言い渡した。裁判長は「一審判決は証拠の評価を誤り、事実を誤認した。缶に覚せい剤が隠されていると認識しながら日本に持ち込んだと認めるのが相当」とした。控訴審では、証拠は一審とほぼ同じで、その評価が焦点となっていた。有罪と認定した理由の主なものは次の3点である。
(1) 別の覚せい剤密輸事件に関与したとみられるイラン人の男の資金で渡航し、男との関係を隠そうとした。
(2) 税関検査で覚せい剤が発見されても驚かなかった。
(3) 缶を持ち込んだ経緯をめぐる供述が二転三転している。
これらを総合的に判断し有罪とした。この判決は、もちろん裁判員の判断を尊重しての判断であることは言うまでもない。私はこれを大いに評価したい。これで裁判制度が正常に機能する。二審が不服なら上告すればいい。三審制で徹底的に審査し、出来得る限り正しい判断に近づくことを期待したい。


2012/03/04 最高裁が裁判員裁判の無罪を支持
先月13日、上記の「覚せい剤取締法違反」上告審で、最高裁が逆転有罪の二審を見直し「裁判員裁判の一審尊重」の判断を示した。「明らかに不合理でなければ一審判決を尊重すべきで、裁判員制度の導入後はよりその必要がある」との判断である。最高裁は「バッグ内のチョコレート缶に覚せい剤が入っていたことを知らなかった」という被告の説明について、「明らかに不合理だとはいえない」とした。つまり二審は一審の誤りを充分示せてなかったということである。
映画「ドラゴンタトゥーの女」で、ジャーナリストのミカエルは、悪徳業者ヴェネストラムとの名誉棄損事件に敗訴するが、ヴェネストラムの実態を知るヘンリックはミカエルに「君の調査は正しい。証明出来なかっただけだ」と言う。つまり今回の二審もこういうことだろうと思う。
上記とは全く別の「覚せい剤取締法違反」事件だが、3月2日の控訴審で大阪高裁は、一審の裁判員裁判で下した無罪判決を破棄して差し戻した。高裁の判断は「客観証拠の通話記録から被告の関与は強く推認でき、一審の事実誤認は明らか。多くは密輸に関する通話と強く推認でき、信用性は高い」と指摘した。
いづれの裁判も一審と二審の判断は180度違っている。「一審の事実誤認は明らか」という部分が重要である。つまりここに三審制の意義がある。どういう審理にしろ、違う目を通して、限りなく真実を追及することが本来あるべき姿である。一審の裁判員裁判を尊重しつつも、控訴、上告で十分審理してほしい。