最近「KY」という言葉がある。「空気読めない」という意味だそうだ。この言葉にぴったり当てはまるのが「光市母子殺害事件」の大弁護団である。先日、広島高裁で「死刑」の判決が出た。一般市民の私としても、納得のいく判決だった。最高裁から差し戻された後、被告側が展開した主張は信じがたいものだった。それだけに、多くの人がこの判決を納得したに違いない。前日のテレビで、被告自身にインタビューした様子を放映していたが、そのとき被告がこう言っていた。「弁護団が21人もいたら考え方が違うんだよね。でも仕上がりはいいようになったと思っている」。弁護団として、何を勝ち取ろうとするのか、その為には被告に関するいろんな事柄の中からどの部分で争うのか。ところが弁護団の方針は、被害者の家族はもちろん、我々市民の感覚ともおよそかけ離れていたと言わざるをえない。判決では「虚偽の供述を構築し、法廷で述べることに勢力を費やした。そのこと自体、反社会性が増進したことを物語っている」と厳しく断罪した。判決の内容を聞くにつれ、溜飲が下がる思いだった。
裁判員制度がいよいよ来年スタートする。私が候補になる可能性は低いだろうが、いつ候補になってもいいように心の準備だけはしておきたい。そこで「死刑制度」について、はっきり自分の考えを固めておこうと思う。裁判員制度で取り扱う事件は、重大犯罪であるから、「死刑」という選択肢も充分にありうる。「死刑制度」に対する確固たる信念なしに公判に臨むことは、“人の命の重さ”を考えれば許されないことである。結論から言えば「死刑制度」は必要と考える。去年の夏、愛知県で起きた殺人事件は、インターネットで知り合った面識の無い3人が、金目当てで「誰でもよかった。力の弱い女性を狙った」と、たまたま通りがかった善良な女性を惨殺した。この残忍な事件を犯しながら、犯人の一人は「死刑が怖い」と自首してきた。私の心の中では、どう処理してよいか分らないような冷酷非道な事件だった。少なくとも犯人の頭の中には「死刑」の二文字が重く圧し掛かっていた。私利私欲のために、どんなに残虐なことをやろうが、死刑にならないというのでは筋が通らない。極刑をもって臨むべき犯罪は存在する。
裁判員制度がスタートするにあたって、「取調べの可視化」にも動きがあっている。警察庁は取調べの様子を一部に限って録画するという。捜査がある程度進んだ段階で作成される“供述調書の読み聞かせ”と“調書への署名”を録画する。全面的な撮影が望ましいのは言うまでもないが、積み重ねてきた捜査の技術もあるだろうから、素人の私には判断がつかない。それよりまず警察庁が発表した「取り調べ適正化指針」による適正化を図るのが先決だ。その指針によれば、捜査部門以外の総務部門などによる新たな部署によるチェックなどを導入するという。富山や鹿児島の事件で明らかになった、強引な取調べの実態をみれば、もしかすると表面に出ていないだけで、他にもあるのではないかという疑念さえ生じる。検挙率にこだわるあまり、人権を無視した自白強要などあってはならない。また、裁判官や検察、弁護士が、警察と仲良しクラブではそれを見抜くことなどできないだろう。「取り調べ適正化指針」も所詮は警察内部でのこと、などと言われないように厳しく徹底し、一般市民が納得のいくものにしてもらいたいものだ。
数日前の新聞に「放送倫理・番組向上機構(BPO)」が、「光市事件」差し戻し控訴審の判決前に放送されたテレビ番組を「感情的に制作された印象がぬぐえない」という意見書を出した。これは、裁判員制度で裁判員の判断にテレビの影響が出ることを懸念してのことだ。裁判は“裁判外で知ったことで判断してはならない”というのが原則だが、市民である私が裁判員になれば、どうしてもテレビや新聞の報道を丹念チェックし、ある程度のイメージをもって評議に臨むだろう。そういうことからすれば報道は、公平性・正確性を期する必要がある。ただ「被害者参加制度」が始まって、被害者やその遺族が直接意見陳述などをすれば、被害者や遺族に配慮した判断になるかもしれない(※注)。「光市事件」はまさにそれを物語っている。しかし、それこそが一般市民の感覚である。裁判員制度自体“国民感覚”を反映させるのが狙いである。変わるべきは裁判官の方である。我々の感覚で妥当性・合理性を追及し、自分が納得した意見を堂々と主張したいものだ。法律の専門知識などない我々は、一般市民としての考えに“誇り”を持つことが唯一のよりどころである。