潤地頭給遺跡

(うるうじとうきゅういせき)

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file-No. 030601

昨日(5月31日)福岡県前原市の「潤地頭給遺跡」で現地説明会が開催されたので行って来た。台風が通過したとは言え、まだ収まりきらない風雨の中での説明会となった。発掘調査が始まって5ヶ月、この遺跡が注目を集めたのは、大量の砥石や碧玉(へきぎょく)が出土し、「伊都国王の装身具工房」の可能性が高まったからである。プレハブの中には、アクセサリー類はもちろん、半農半漁の当時の暮らしを偲ばせる土器類が、分類され置かれていた。パンケース120箱に及ぶ土器が発見されたそうだ。なかでも私が注目したのは、当然二つの砥石であった。中央に勾玉を研ぐための溝がある。あの「伊都国王」の墓に埋葬されていた勾玉も、この砥石で造られたのかも知れないと思うと特別の感があった。

「伊都国」について「魏志倭人伝」には次のように記述してある。


 東南陸行五百里到伊都國宮曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚
 有千餘戸丗有王皆統属女王國郡使往來常所駐
     

「代々王がある。みな女王国に属している。帯方郡からの使者が往来するとき常にとどまるところである」というから、女王国の中でも特別の存在であった訳だ。大陸からの玄関として政治や貿易面の優位性もさることながら、早くから発展した農耕文化により、経済的安定が基盤となったのだろう。折しも、つい先日、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500年早い紀元前1000年頃というニュースが流れた。それも福岡市の雀居遺跡や橋本一丁田遺跡などの出土品(だけではないが・・・)で分析した結果、弥生早期後半の夜臼2式土器と前期前半の板付1式土器などが紀元前800年から前900年ころに集中することが判明したという。北部九州の夜明けは早い。

その強大な権力をもつ「平原(弥生)遺跡の伊都国王」は、「女王」であったと言われている。その理由は、副葬品の中に武器がほとんどないかわりに、ネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多数出土した為である。しかし、これらの鏡やアクセサリーは、埋葬前にすべて無残にも割られていた。伊都歴史資料館にある説明では、「女王は、台風の荒れ狂う中、台風の退散を願って籠もったが、台風は大樹を引き裂き、神殿を女王もろとも吹き倒し、垂飾の銅鏡とともに押しつぶした」となっている。しかし、一部には「人為的なものではなかったか」との疑問を呈する向きもある。私も状況から見て、台風で破砕したと言うには無理があるように思う。ただ当時としては、身分を象徴する重要度から言えば、トップに位置するものである。女王以外の何者も手はつけられないと見た方が妥当ではないだろうか。私としては、台風を鎮める為の最終兵器として、女王自身の手によって砕かれたのではないかと思っている。(注1)(注2)

昨日のニュースでは、5月の台風は非常にめづらしく、38年ぶりという。その稀有な台風の中での現地説明会は、伊都国女王の死と無関係ではないかもしれない。潤の集落に住む、伊都国女王の専属職人たちが、精魂こめて貴重な宝物を造り献上した。身に付けたその宝物を犠牲にし、命がけで台風退散を祈ったにもかかわらず、女王は散ってしまった。武器を好まなかった女王は、きっと村人たちを大事にしていたに違いない。工人たちは嘆き悲しみ、台風を恨んだに違いない。その弥生の工人たちの、正にその時の思いが、この発掘によって、地中から解き放たれ、甦ったような現地説明会であった。


(注1)伊都国歴史博物館、編集・発行(H18/10/7発行)の「大鏡が写した世界」には、平原遺跡の破砕鏡については次の通り記載されている。
平原一号墓からは40面の銅鏡が出土している。そのうち、南から北へ伸びる撹乱内から出土した銅鏡四面については完形で副葬された可能性がある。しかし、そのほかの銅鏡は墓坑の四隅に破砕された状況で出土している。特にC・D区では集中して銅鏡が破砕されており、王を埋葬する葬送儀礼の中で、王を取り巻く限られた人物たちが、割竹型木棺を設置した後、墓坑を取り囲み、方格規矩鏡などを破砕した様子が復元される
(注2)福岡埋蔵文化センター考古学講座「邪馬台国への道」H18・11・18「邪馬台国1」・・・講師の高島忠平先生は、「鏡を割って巫女王の霊力を封じ込めた」との見解だった。レジメやパワーポイントには次の通り記載されていた。
○弥生後期後半多量の棺外破鏡をもつ墓(福岡県平原)・・・※破鏡は、中国古代では旧へ戻らない意味がある。そのため呪詛として用いられた。北部九州の弥生の墳墓の棺外副葬として多く見られる。
○弥生時代後期後半には、多量の破鏡で封じ込める霊力を持つ卓越した巫覡王が出現する。棺外に置かれた破鏡は、被葬者の霊を封じ込める呪器としての意味がある。
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追伸:平成16年3月4日読売新聞より

潤地頭給遺跡・・・青銅製ブレスレット出土
弥生中期の甕棺・・・伊都国の有力者?

福岡県前原市教委は3日、弥生時代中期(約二千百年前)の青銅製のブレスレット三点が、同市潤の潤地頭給遭跡の甕棺から出土したと発表した。
ブレスレットは釧(くしろ)と呼ばれ、銅釧は被葬者の権力を示す副葬品とされる。三点はいずれも初期の銅釧とみられ、クニの変遷を考えるうえで貴重な資料になるという。
市教委は昨年一月から潤地区の約四万平方bを調査。北側で水晶、碧玉などをつくる「玉造り工房」跡が確認された。工房は三世記ごろとみられ、周辺から三百六十基の甕棺も見つかった。うち、一基の甕棺には銅製の破片19個が入っており、復元したところ、三点の鋼釧と分かった。厚一みは0.2〜0.3aで、直径は7a前後と推定される。
甕棺は成人用で、上甕、下甕とも長さ約90a。埋葬のために掘られた穴は、地区内で最も大きく、ほかの甕棺には副葬品がなかった。 前原市には、中国の史書『魏志倭人伝』に記された「伊都国」があったとされ、九州大の西谷正名誉教授は「釧が見つかった甕棺は伊都国になる前のムラが集まった地域共同体の有力者の墓と考えられる。伊都国になるまでを考える貴重な資料となる」と話している。

追伸:平成16年3月7日現地説明会
去年の現地説明会から9ヶ月、今回の説明会も前回に負けずとも劣らぬ激しい天候でした。強風に雪が舞い散り、体感温度は正に“零下”でした。それでも、実際に工房の遺構に立ち説明を聞くと、やはり来てよかったと思います。今回の銅釧は、まだ大陸からほとんど入ってきてなかった頃の貴重なものだそうです。重要なのは、その貴重な銅釧を身に付けることが出来る権力者が存在していた事です。更に「伊都国」の「玉造り工房」というのは当然のことながら、今津湾に面していることから、遠隔地からの原材料の調達と、どれだけの地域に「玉」を供給していたかも解明が待たれるところです。
現地説明会資料より
(1)遺跡の槻要
 潤地頭給遺跡は、糸島半島のほぼ中央部、旧今津湾にはど近い標高3〜4mの南北に延びる微高地上に所在します。弥生時代中期を中心とする甕棺墓群、建物群、弥生時代終末〜古噴時代初頭の玉造り工房群、墳丘墓、奈良時代、中世の遺構が検出され、長期におよぶ集落遺跡であることが確認されました。
(2)玉造り工房群について
 玉造り工房関連の遺構については、工房と確認できたものが13棟、工房の可能性が考えられるもの18棟の、全30棟が検出され、南北120m、東西80mの範囲に広がる弥生時代終末〜古墳時代前期前半にかけての大規模な玉造り工房群であることが分かりました。工房は、主に円形に排水溝を巡らし、中に竪穴式住居を建てるもので、工房内からは、玉の未製品や加工用の工具類などが出土しています。原材料は、碧玉、水晶、メノウを用いており、碧玉は管玉、水晶は算盤玉、丸玉を造るなど、数種類の石材でさまざまな製品を製作していたことが分かりました。本格的な玉造り工房としては、九州では初めての発見であり、「伊都国」における玉造り専門工人集団の存在が示唆されると共に、玉の供給エリアの広がりを解明することが今後の課題となりました。
(3)蟄棺出土の銅釧について
 出土した360基の甕棺群の南西部に位置する甕棺墓のひとつ299号甕棺内から、青銅製の釧(ブレスレット)が出土しました。右手にあたる位置でバラバラになった状態での出土でしたが、断面の形が方形、長方形、かまぼこ形の3タイプあることから、3点あったものと考えられます。出土した銅釧は、全て円環型銅釧で、幅0.3cm、厚み0.2〜0.3cmあります。銅釧には円環型、有鉤型、イモガイ型の大きく3種類あり、今回出土した円環型銅釧のタイプは、弥生時代前期末に出現する古いタイプで、出土例も比較的少なく、貴重な資料と考えられます。 釧は、単なる装飾品としてではなく、呪術的な意味や権力を示すものと考えられています。今回、潤地頭給遺跡から出土した360基の甕棺の中で、副葬品を保有するものはこの甕棺のみで、青銅製副葬品を保有できる有力な人物と考えられます




追伸:平成16年8月24日読売新聞より

弥生の準構造船
伊都国の大型船? 前原で部材出土

福岡県前原市教委は二十三日、同市潤の潤地頭給遺跡で、弥生時代終末期(二世紀未)の準構造船の部材が出土したと発表した。準構造船は古墳時代に盛んに造られた外洋航海または輸送用の大型船で、九州では初の出土。弥生時代の出土例はほとんど報告されていない。一帯は「魏志倭人伝」が記す伊都国と推定されており、外交・交易拠点として栄えた伊都国が高度な造船技術を持っていたことを示す発見だ。<解説34面>

丸太をくりぬいた船底部三点と、舷側板(ゲンソクバン)一点で、井戸枠に転用されていた。船底部のうち一点はクスノキ材、他はスギ材であるため、船は二隻とみられる。スギ材の合計は長さ三・一bで、欠損部を補った全長は六〜七bに達する。読売新聞西部本社、石棺文化研究会などでつくる「大王のひつぎ実験航海」実行委員会が福岡市・志賀島で復元中の古代船も、五世紀末から六世紀初頭の準構造船だ。小田富士雄・福岡大名誉教授(考古学)は「邪馬台国の時代まで準構造船がさかのぼることが確実になった。国内外の物資の交流や対外交渉の拠点であった伊都国が、進んだ造船技術をいち早く導入したことを物語るもの」と話している。
[解説](同日読売新聞34面)
伊都国繁栄の「足」・・・交易施設発見に期待

「魏志倭人伝」は伊都国について「郡使の往来常に駐まる所なり」「一大率(イチダイソツ)を置き諸国を検察せしむ」と、邪馬台国連合の中で内政・外交上の特別な地位が与えられていたことを伝えている。福岡県前原市で出土した準構造船は、こうした外交や交易に用いられたとみられ、伊都国の繁栄を支えた足といえる。船底部と舷側蹴の接合部を薄くする工夫や、両側にある舷側板をつなぐ梁(ハリ)を通すほぞ穴も確認されるなど、「埴輪などから想像するしかなかった具体的な構造が判明し、復元も十分に可能」(一瀬和夫・大阪府教委文化財保護課主査)という。
 今後期待されるのは港とそれに付属する交易施設の発見だ。部材が井戸に転用されているため、出土地点をただちに港と結びつけることはできないが、地質学的調査の結果では、当時は現場の数百b近くまで東西から海が入り込んでいたことがわかっている。森浩一・同志社大名誉教授は「港があるとすればこの一帯と考えていた」と言う。昨年、同遺跡で確認された弥生終末〜古墳前期の大規模な玉類の生産工房跡との関係も注目される。出土した碧玉は現地産ではなく、島根県玉湯町の花仙山から持ち込まれたと考えられている。工房の存在は近くに港と交易施設が存在したことを示唆するものといえる。
(文化部 池田和正、本文記事1面)

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