日本最古級の“すずり” (糸島:三雲・井原遺跡) |
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糸島市の三雲・井原遺跡で弥生時代後期(1〜2世紀)のものとみられる"すずり"の破片が出土した。この現地説明会には、多くの古代史ファンが集まり、テレビ局も数社取材に来ていた。発見された番上地区の場所は、弥生時代中期からおよそ200年にわたり土器が捨てられた「土器溜り」である。発掘後、土器を洗っていて気付いたという。破片は6cm×4.3cmほどだが、その形状から"すずり"と判断された。その根拠のひとつは、砥石であれば全面を研磨するが、これは表面だけが研磨され、裏面は粗いままである。厚さ6ミリのうすい板状であることから、中国・漢代に使われたすずりの形状だという。このすずりを使う台のイメージとして、楽浪郡で出土した台の模型写真が示されていた。弥生時代のすずりの発見は、松江市の田和山遺跡に次いで2例目のようだが、今回のすずりは、実際に使われていたと思われる点に歴史的な価値がありそうだ。見学者から墨の痕跡などの質問も飛んだが、まだ発見して2週間ということもあって、詳しいことは今後の調査を待たねばならない。 |
魏志倭人伝には、伊都国についてこう書かれている。「世々王あり・・・郡使が往来し、常駐の場所である・・・一大率を置き諸国を検察させ・・・諸国はこれを畏れ憚る・・・郡が倭国に使するときは・・・文書・賜遣のものを伝送して女王に届け・・・」。伊都国は弥生時代、大陸との交流の拠点であり、対外交渉の窓口であった。使節が常駐した場所として迎賓館的な居館があったと推測され、壊れた土器類を捨てるとすれば居館近くに捨てるはずとの説明だった。番上地区からは、楽浪系の土器が集中して出る(三雲番上型)。説明会資料によれば、魏志倭人伝に、伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があり、今回のすずりの出土は、その記述の信頼性が高まったとしている。楽浪郡との文書のやり取りがあり、賜遣に対しては、当然受領やお礼の文書があったはずである。つまり代々王様がいた三雲・井原地区には文字を書くための道具が存在して当然だったのである。発掘に携わった人は、今回の発見について「想定内」のことだったという。 |
魏志倭人伝に「世々王あり」と記されている伊都国だが、その歴代の王墓とみられるのが「三雲南小路遺跡」(中期後半・紀元前後)、「井原ヤリ溝遺跡」(後期中頃・紀元100年頃)、「平原遺跡」(後期後半・紀元200年頃)である。三雲・井原遺跡は、瑞梅寺川と川原川に挟まれた地域にある。今回の説明会では、瑞梅寺川傍に倉庫群があり、大陸からの品物を引き船で上って保管したのではないかとのことだった。三雲南小路遺跡と井原ヤリ溝遺跡からは、王墓に相応しいそういった大陸からの多くの副葬品が出土している。この二つの王墓は、江戸時代に発見された記録がある。三雲南小路は40年ほど前に再発見されたが、この100mほど南に位置する井原ヤリ溝遺跡は現在もその場所は不明である。最近の発掘で国王の側近か近親者と思われる墓が発見され、必ずや国王の墓もこの付近にあると発掘調査が進められている。しかし、今回の発掘現場である番上地区は、田圃の所有者から貸してもらって発掘をしているとのことだった。広大な井原遺跡を発掘する関係者の苦労が伺われる。 |
当然出るべくして出た"すずり"であるが、机や筆などは出土していない。説明によれば、この地区は有機物が残りにくい地質だという。しかし三雲・井原遺跡の海側に、今宿五郎江遺跡という弥生時代の遺跡がある。ここからは多くの木工製品が出土した。その中に「机」の一部が出土している。また出土した漆製品の模様は、繊細な線で描かれており、「筆」と「ろくろ」で描かれたものと推測されている。さらに、三雲遺跡から出土した3世紀の土器には「竟(鏡)」という文字が線刻されていた。鏡が重要な威信財として扱われた伊都国にあって、この文字は単なるデザインではなく、意味のある文字と思われる。諸国が恐れるほどの権力を持つ一大率があり、対外交渉の窓口であった伊都国においては、文字と文房具の存在に違和感はない。その環境にあって「文字」「すずり」「机」「筆」が存在していたことが伊都国の文字文化を確かなものにしている。現地説明会の資料は『今回の硯の出土は日本における文字文化の受容が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す』と締めくくっている。 |
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”カササギ”ではないか?と思われます | |