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File No.150830


国立競技場
政府が新国立競技場の整備計画を「白紙に戻す」と発表して1か月余り。8月28日新たな整備計画が発表された。問題の総工費は、2650億円から1100億円削減し、上限を1550億円とした。今回「性能や機能をゼロベースで見直し、国内外の類似施設の費用比較などから推計した」という。この金額が妥当かどうか判断できないが、安易な税金の使い方に、国民がこれだけ神経を尖らせている状況下での決定である。それなりに厳しい詰めはあったものと推測する。公共事業は、そういった内容を公開し透明性を確保することが、事業主の国民への責務である。さらに今後、人件費や資材の高騰、完成時期の前倒し、財源の確保など多くの難問が待ち構える。官邸主導の新体制で、責任の所在が明確になり、少なくとも、これまでよりは透明性がでてくるだろう。今回の事業は、追いつめられての仕切り直しで、もはや予断を許さない状況にある。JSCは信用できるような組織ではないが、我々としては上限の設定された新整備計画の進捗を身守るしかない。
新国立競技場:試算の推移
2012/11→ 1300億円  ザハ氏のデザイン決定。(民主党政権下)
2013/08→ 3462億円  JSCが文科省に報告。
2013/09→ (2020年オリンピック、東京に決定)
2014/05→ 1625億円  JSCが基本設計案を発表。
2015/02→ 3088億円  大成、竹中。ゼネンコン2社がJSCに提出。
2100億円 JSCは文科省に900億円少ない額を報告
2015/04→ (JSCが文科相に、ここではじめて報告)
2015/07→ 2651億円  有識者会議が承認世論が反発。
2015/07→ (計画を撤回、ゼロベースで見直す)
2015/08→ 1550億円  新整備計画。
時系列でみていくと、まずデザインだが、中心人物の建築家・安藤氏によれば「私はデザインを決定しただけ。(なぜ2520億円なのか)私も聞きたい」と会見で述べた。しかし誰が考えてもコストを考えない建築デザインなどありえない。デザイン決定直後から、建築家たちからこの予算では建たないという声が聞かれている。予算の1300億円も、単に以前見積もった1000億円の3割増しにしただけのものだった。2013/08の3462億円も、当初1300億円+αとしていたが、要望を聞いて積み上げたら3000億円を超えたと文科省に無責任な報告している。そして自民党がヒアリングをした半年後の2015/05、JSCは1625億円まで削減した基本設計案を発表する。「これより膨らむことはない」と言ったが、自民党が総工費の根拠を聞いても、交渉は契約の問題なので外に出せないと拒否したという。その舌の根も乾かぬ2015/02。ゼネコンが3088億円の見積もりを出してきた。ところがJSCは文科省に2100億円程度と900億円も安く報告している。極めつけは2015/04、ここではじめて政権(文科相)に「このままでは間に合わないし、予算もオーバーする」と泣きついている。1000億円を超える巨大プロジェクトも無能な者に任せるとこんな悲惨な結果になる。
国立競技場解体

日産スタジアム
今回の不始末の犯人は、言うまでもなく無能なJSCだが、加えて無責任な文科省の担当局である。"無能"と"無責任"のコラボが最悪の結果を招いた。だがそれだけだろうか。JSCは文科省の天下り先である。JSCのようなゆるい外郭団体が、文科省の下には100を超えるほどあるという。これがみんな税金を食い物にして、少々でたらめをやっても、何とかなると高をくくっている。そもそもコストの意識など毛ほども無い連中である。加えて気位(きぐらい)だけは人一倍高く、自分に能力が無くても人の意見など聞く耳持たず暴走する。それを周りから見ている関係者も見て見ぬふり、会見に出てきても「私は関係ない」と白(しら)を切る。真犯人は、そんなバカどもを野放しにしている政治家たちにあるといってもいい。日本国の名誉を賭けた東京オリンピック2020。世界に日本のすばらしさを発信する絶好の機会でもある。にもかかわらず、新整備計画も、引き続き「無能力者・JSC」が主体となって進めるという。後世の「負の遺産」にならなければよいが・・・・。
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2015/09/01 民主党は、自分がやった強行採決を忘れたのか!!!!
次は、2010年6月、民主党が郵政改革法案を、わずか5時間の審議で強行採決したときの随筆である。この年、民主党は次から次へ、全部で11回、強行採決をした。まさにやりたい放題だったわけである。それに引き換え、安保法制の審議は、実に丁寧に長く審議している。ちなみにGoogleで「民主党 強行採決」で検索してみるといい。40万件を超える件数が表示される。
(2010・06・05)民主党は「郵政改革法案」を、なにが何でも通そうとしている。先日の衆院での問答無用の「強行採決」がそれを現している。以前、郵便局長会議でそこの会長が「数は力。法案は強行採決してでも絶対に通す」と言っていた。限度額(2000万円に)引き上げについても「小沢の第一秘書が電話を、私のところに夜かかってきて"心配せんでも、あんなもん通っちゃうんだから"」と言ったという。あっちこっちの郵便局長会議でも「強行突破してでも通してもらいたい」「強行採決は仕方がない」と繰り返し叫ばれた。そんな中、小沢一郎(前)幹事長は、先月の郵便局長会議で「今国会での法案成立をこの場で約束する」と言ったという。国会前に"約束する"とは、つまり国会審議など眼中に無いということだ。こういう経緯を見れば、5時間で強行突破は、やるべくしてやったと言えよう。極めつけはこの一言。記者がある郵便局長に「皆さん自身の生活にもかかわってきますよね」と質問すると「そうですね、本音はそういうところにありますよね」と答えた。な〜んだ、大層なことを言っても結局、この改悪は郵便局長の生活レベルだったのか。
(2010・06・17)選挙の票に関係なければ、見て見ぬふり。選挙の票を取れるとなれば、5時間で強行採決。事業仕訳では、国の根幹にかかわる国防費は「現状維持さえ認めず」、国の将来を担う科学技術については「"はやぶさ2"の開発を切り捨て」、その一方では、子供手当と称してバラマキ、その子供手当は、旅行や買い物にまわり、金が足りないと消費税を上げるという。消費税を上げるのに反対なのではない、税金の使い方に納得できないだけである。事業仕訳も200社を超える郵政ファミリーを切り捨ててみろ。やれるものならやってみろ。お飾りの大臣のやる事業仕訳は、所詮その程度のものだ。
もう2度と民主党(左翼)の、あの悪夢のような政治は、御免こうむる。あの悲惨な時代を思い返すと寒気がする。



2015/09/19 孫子の兵法
「孫子の兵法」にはこう書いてある。
『敵の5倍の兵力があれば、すぐ攻める。しかし、敵の10倍の兵力があれば、話し合いで決着がつく』。
敵を圧倒する兵力があれば、戦争しなくても相手は屈服する。
国対国においては「性悪説」が世界の常識である。そういう世界にあって同盟国は「集団的自衛権」で国家、国民を守ることが、これもまた世界の常識である。
戦後70年、アメリカの軍事力を背景に平和は保たれてきた。それがなければ日本は今頃、ソ連の領土になっているかもしれない。
領土拡大を虎視眈眈と狙う国に対して、日本は「この印籠が見えねえか」と、憲法9条を掲げるが、そんなものは銃弾一発で息絶える。

2015/09/22 安保法成立
国民の生命と財産を守るための安保法が成立した。中国の海洋進出、北朝鮮の核・ミサイルなど、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増している。日米同盟の強化、あるいは周辺国との密接な連携により抑止力を高める必要がある。安保法は、すき間のない日米防衛協力体制を構築し抑止力を高めることになる。

今回、衆参両議院で、それぞれ100時間を超える審議を重ねた。野党の対案などにも丁寧に対応した。無責任な野党は、強行採決させて、攻撃材料をつくるのが目的である。野党や左翼メディアの「審議が尽くされていない」という決まり文句は、賛成するつもりなどないということと同じ意味である。

野党・左翼メディアは、「性悪説」で出来ている。日本をよりよくするためなど考えていない。とにかく反対、何が何でも反対。日本を停滞させるために命がけである。今回も戦争法案などと無責任な宣伝をする。軍事力のバランスが平和を保つための基本である。軍事力のバックがあってこそ、外交が意味を持つ。

今回の安保法は、「新3要件」により、自国防衛のための厳しい歯止めがかけられている。日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合、日本の存立が脅かされ、国民に被害が及ぶことが明らかな事態での武力行使を規定している。しかも、国会の事前承認を必要としている。国民は、野党や左翼メディアの無責任な宣伝に惑わされてはいけない。

左翼新聞テレビ、無責任な野党は、こう考えると分かりやすい・・・
政権を父母、野党や左翼を祖父母にたとえてみる。祖父母は、孫にモノを買い与え、甘やかすだけ甘やかす。それは教育をする責任が無いからである。しかし父母は違う。成人するまで我が子を守り、自立した成人に育てる責任がある。だから父母は、少々嫌われても、それが子供のためなら、厳しいことも言わなければならない。

政権は、国民の生命と財産を守る責任がある。時には厳しいことも言わなければならない。一方、野党や左翼は、国民に向かって「私たちは、平和を愛する」と甘い言葉だけを言って、現実を無視する。反対のための反対をする左翼にとって、どうやって平和を保ち、自立した国家を維持するかなど関係ないのである。

無責任な野党と、祖父母には決定的な違いがある。祖父母は、今の父母を立派に育てた経験がある。一方野党は、その経験がない。あの悪夢のような民主党政権時代をみれば一目瞭然である。出てくる大臣、出てくる大臣が、まるでど素人、ただただ右往左往するだけだった。

問題は左翼や野党だけではない。平和を保ち、自立した国家を維持するには、どうあるべきかを判断できる国民であらねばならない。戦後70年、強大なアメリカの軍事力がバックボーンとして存在した。「私は平和を愛する」と言っているだけで、我々の生命や財産が守れる訳ではない。