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File No.150705

先日、フリーマーケットを歩いていたら「画報現代史」という古い本が目に留まった。それは昭和34年に国際文化情報社から発行されたグラフ雑誌だった。何冊かあったが、昭和21年1月から8月ころまでの7ヵ月間が記載された第二集を買ってみた。終戦直後の混乱期、私がまだ0歳児の頃の世相が収録されている。目次の頁には「この集のあらまし」として、次のようにまとめられていた。
・・・深刻な食糧危機・生活問題と、新憲法・天皇制問題をめぐって、保守勢力と革新勢力が押しつ押されつの激しい政治闘争をくりかえした時期である。またこの時期は、世界と日本の転換期にあたっている。チャーチルの「鉄のカーテン」演説は、戦争以来の協調にくさびを打ち込んだ。共存は対立にかわり、“冷たい戦争”(コールド・ウォー)の時代がはじまる。・・・まさに倒れんとした保守勢力を支えたのは、あきらかに他ならぬアメリカの対日占領軍そのものであった。

3月6日、今日の日本国憲法のもとになった草案が発表された。しかし、それは明治憲法の一部改正で充分だと、天皇統治権に固執する政府方針(松本試案)とは全く違う主権在民をうたったものだった。松本試案とは、2月4日閣議決定し、政府の正式な草案として、2月7日天皇に奏上し、総司令部に提出したものだ。ところが総司令部はこれを全面的に拒否し、民生局長ホイットニーに新しく草案させた。憲法草案の起草と発表の経緯をマーク・ゲインの「ニッポン日記」にはこう書いてある。「戦争と軍備を放棄する条項の規定は、もともとマッカーサー元帥自身によって書かれたと見なす十分な根拠がある」。こうして出来た草案を政府に突きつけたとき、総司令部は「この案にしたがってつくるのでなければ、天皇の地位は保証できない」と脅した。政府はこの脅しに屈服したのだ。結局、ほとんどマッカーサー原案そのまま、3月6日に憲法改正草案要綱が発表された。天皇は草案採択の勅語をお出しになり、マッカーサーはこの草案に無条件の承認を与えた。

金森国務相が仕上げた憲法草案で、国会で論議の的となったのは、天皇象徴の第1条と戦争放棄の第9条だった。第1条の象徴天皇について、自由党や進歩党は、この条文の実体は天皇を主権者と認めていると主張、一方、共産党は、新憲法の建前とする主権在民をあいまいにするものだと反対した。これに対し金森国務相は、「主権は天皇を含む国民にある。主権は国民にあり、ただし国民のなかに天皇が含まれる」とし、「天皇は国民の憧れである」との見解を述べている。憲法改正において、天皇制をどうするかの議論が高まる中、天皇陛下の全国巡幸が始まった。これは「日本国民の民主化に指導的役割を果たすべき」というマッカーサー声明により、天皇の新しい役割を広めるためであった。巡幸の様子を新聞はこう伝えている。「堰(せき)を切った万余の群衆は、口々に万歳を連呼しながらお車目がけて突進。陛下はお車からソフトをうちふられつゝ歓呼にお答へになった」。

マッカーサーはアメリカ本国から「日本統治の権限は連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官の権限は最高であるから、貴官はその範囲内で日本側からのいかなる異論も受け付けない。貴官は実力の行使を含む措置をとることによって、貴官の発した命令を強制することができる」との指令を受けていた。この状況のもとマッカーサーは「第1に憲法は改正を要する。改正して自由主義的要素を十分取り入れなければならない」述べている。提案される憲法改正案は、総司令部の同意を必要としていた。このことからしても、天皇統治権に固執する政府が、明治憲法の一部改正で充分だとして起草した政府案が一蹴されたのは当然だったのかもしれない。日本からのいかなる異論も受け付けず、従わなければ実力行使をするという状況において、当時の政府は、国体護持のために屈服するしかなかったのである。現在の憲法はこうして、全面的にアメリカから脅され、押しつけられて出来たものである。


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