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File No.150613

4月の参院予算委員会で、次世代の党から「国立大学の入学式、卒業式に国旗・国歌があるのは当然の姿」という意見が出された。国立大学86校のうち12校が国旗を掲揚せず、国歌至っては斉唱したのがわずか14校だったという。安倍首相は「改正教育基本法にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。『「君が代」日本文化史から読み解く』の中にはこう書いてある。「西洋では、国歌とともに、人々は弾かれたように立ち上がり、音楽に対して姿勢を正した」。どこの国でも、国旗・国歌に敬意を払うのは常識である。しかも、我々の税金が使われている国立大学の話である。改めて要請しなければならないという日本の現状は、「国家観」の欠如を意味している。『「君が代」日本文化史から読み解く』を読めば、「君が代」の成り立ちを通して、教育基本法にある「日本の歴史と伝統を尊重し、これをはぐくんできた国と郷土を愛する」ということが理解できるはずだ。
この本によれば、「君が代」の歌詞の初出は「古今和歌集」だという。「古今和歌集」は、平安初期に編さんされた勅撰和歌集である。その中のひとつに「わがきみは 千世にやちよに さざれいしの いはほとなりて こけのむすまで」という和歌がある。ほぼ現在の国歌の歌詞と同じである。編さんされたのは905年もしくは915年ということだが、作者が不明で「詠み人知らず」となっていることから、当時すでに「古歌」として認識されていたのではないかと書かれている。今から1100年、それをさらに遡るような昔の歌である。その歌が、今、国歌として敬意を払われている。この初出の和歌を核として、少しづつ形を変えながらも、本来の意味を失わず受け継がれていった。そこには、世の安寧と長寿を祝う、普遍的な願いが込められていたからだ。平安貴族の文化であったものが、江戸時代には庶民の文化として定着し受け継がれていった。そこには1100年の長きにわたって、日本人の心に生き続けた文化の重みがある。
時代々々の「君が代」を追っていくと、日本の文化が見えてくる。まずは10世紀初頭の「古今和歌集」から始まる。その後の平安時代11世紀には朗詠が好まれ、その歌詞集「和漢朗詠集」に収められた。鎌倉時代、室町時代には、「能」によって受け継がれていく。この頃、「現在能」として、現実を生きた人たちの物語に登場する。「春栄」という兄弟愛の話が紹介されている。『(地)定めを祝う祝言の、千秋万歳の舞の袖、翻し舞うとかや。 (シテ)千代に八千代にさざれ石の、・・・・・』。安土桃山時代には、現在の国歌とまったく同一の詞章が、寺社の白拍子舞の中で歌われていた。江戸時代に入ると「君が代」が、長唄、浄瑠璃、三番叟などによって庶民の中に広まっていく。本にはこう書いてある。『<君が代>や<千代>が登場する。<松>も<鶴>も顔を出す。歌詞には江戸中期を生きた庶民の言葉感覚が反映されていた』。こうして受け継がれ、庶民にまで根付いた「君が代」という祝いの歌は、明治時代に入り、いよいよ国歌として登場する。

「古今和歌集」では季節の歌、別離の歌、恋の歌などいくつかに分類され収録されている。「君が代」はその中の「祝いの歌」に含まれる。その後の時代にあっても、常に「祝いの歌」は、最初の方に収録されているという。江戸時代、世の平安や、五穀豊穣を願う人々に、庶民文化の中で「君が代」が日本全国で好まれた。それが明治時代に入って、国歌に採用された大きな要因である。しかし、「君が代」は、最初から国歌として作られたものではなかったようだ。当時の式部寮雅楽課の奥好義氏と林廣李氏により「保育唱歌」として作曲されたものだという。1000年の歴史の重みと、日本伝統の雅楽による節付けは、日本の文化を代表するに相応しいものといえる。「君が代」は、これだけの日本文化の裏付けから生まれ、その意味するところは、時代々々の人々共通の思い「祝い」であった。国歌「君が代」を考えるとき、この背景をしっかり踏まえれば、あだやおろそかにはできまい。

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「君が代」日本文化史から読み解く

           (平凡社新書762)

  著 者:杜こなて
  発行所:平凡社
  発行日:2015年1月15日 初版第1刷
  装 幀:菊池信義