日本の美 (クリーブランド美術館展を観て) |
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西鉄のセット切符 |
九州国立博物館で「クリーブランド美術館展」が開催されている。今回観にいこうと思ったのは「名画でたどる日本の美」というサブタイトルに魅かれたからである。このクリーブランド美術館の信条の一つに「作品の歴史的な意義」というのがある。解説によると3代目の館長のシャーマン・リーさんは、GHQの美術顧問官として、占領下で日本美術を調査した経歴を持つという。日本の美術に精通していたことが、歴史的な意義を踏まえ、体系的な収集できたということなのだろう。日本美術の歴史に触れながら、観ていくうちに、その素晴らしさがゆえに、"これらすべてがアメリカの美術館の収蔵品なのだ"と改めて感じた時、情けない気持ちにもなる。ともあれ「移ろいゆく四季と自然」「多彩な自然と人の表現」などコーナーのタイトルが示すように、日本人の自然との関わりを絵画の歴史とともに辿っていく。豊な日本の自然が育んできた日本人の鋭くまた繊細な感性を改めて学んでみたい。そんな気にさせる展覧会である。 |
「薄図屏風(すすきずびょうぶ)」の解説に『画面上部に残る長方形の跡は、和歌などをしたためた色紙型が貼られていた形跡か』と書いてある。これは室町時代16世紀の作品である。部屋の中で一面に広がる薄(すすき)を愛(め)で、和歌をしたためる。我々の祖先はこんなにも風情のある生活を楽しんでいたのだ。四季の移ろいを敏感に感じ取り、豊かな感性に磨きをかける。「四季山水図」には『緑が残る夏、渡り鳥の秋、雪景色の冬を表す三幅だがもともとは春を加えた四季山水図であった』と書かれている。そんな四季の表情を楽しむその最たるものは日本庭園だろう。障子一枚開ければ、そこには木々が茂り、清らかな水流れる。秋には月を楽しみ、冬には雪を楽しむ。季節々々に移り変わる遠くの自然の風景までも借景する。部屋と自然が違和感なく繋がり、部屋の中に自然が入り込んでくる。それこそが日本人の目指した究極の美ではなかったろうか。「薄図屏風」「四季山水図」はそんなことを感じさせる作品だった。 |
「旅人」で行った |
九州国立博物館 |
『一つ松 幾世か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも』。これは万葉集にある市原王(いちはらのおおきみ)の歌である。松のこずえを吹く風の音に、深い歳月を感じ取るこの鋭さ、繊細さは見事である。日本人の豊かな感性は「音」にも表れている。少なくとも、秋の虫の音(ね)が雑音にしか聞こえない、外国人には理解できない音の感覚である。それは自然に育まれた日本ならではの和の音と言ってもいいだろう。和楽器は、自然の風景を音で表わしてきたという。市原王が感じた、松を吹き抜ける音などが演奏されるのである。自然の音は、庭園にも取り入れられている。滝の落ちる音、川のせせらぎ、ししおどしの音。以前観に行った町屋の庭に「水琴窟(すいきんくつ)」があった。大名などの茶室の庭園ではなく、町屋の庭につくられていたというところに意義がある。日本人は、この静かな静かな響きに、耳を傾けてきたのである。 |
日本の国土は7割が森林である。雨が森林に降り注ぎ、豊かな森を育てる。春夏秋冬の四季は、美しい景色を演出してきた。その傍に寄り添うように生きてきた日本人の感性は、そんな自然環境によって育まれてきた。しかし考え方によっては、この素晴らしい自然は、日本人だからこそ存在しうるのである。「人間原理」という宇宙論がある。物理学では、宇宙の物理定数が、人間の存在に必要な条件を満たしている。そうでなければ宇宙は観測されない。人間がいてはじめて宇宙が存在するのである。日本人の繊細な感性だからこそ、「移ろいゆく四季と自然」「多彩な自然と人の表現」が存在し得るのである。それはすなわち「日本人原理」と言っていいのではないか。さらに言えば、そんな自然環境をつくりだしたのは、日本という国の位置が、地球における「ハビタブルゾーン」だったからだといえる。 |
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