弥生時代の「絹」
随筆のページへ トップページへ File No.140710
7月5日に開催された「いとしま市民大学・歴史散歩しま専科」の第1回講座を受講してきた。テーマは「絹が示す伊都国は神話の舞台」、講師は古代史研究家の萱島伊都男氏。萱島氏は「出土状況」「文献」などあらゆる角度から古代の「絹」を検証し、邪馬台国は伊都国近隣に所在したと結論づけた。「絹」の出ていないところに邪馬台国はあり得ないという。さらに「"絹"を突き付ければ、近畿説は反論できない」と、近畿説を木端微塵に粉砕である。説得力のある講話と、小気味好い結論だった。講座の中で出てきた、古代絹の研究の第一人者と言われる布目順郎氏もこう言っている。『弥生後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある』。絹は、福岡県、佐賀県、長崎県からしか出土していない。萱島氏はその多くが「日向峠」付近であることを指摘する。吉武高木遺跡、樋渡遺跡、拾六町宮の前遺跡などである。
さて、示されたその根拠となる出土状況は、次の通りである。
出土県 出土地域 出土数 備考
福岡県 福岡市 内、「日向峠」直下・・・・4
春日市・太宰府市   
その他の福岡県   
福岡県・計    11   
佐賀県      
長崎県      
合計 (=全国合計) 14   
尚、右のグラフは「邪馬台国の会」のHPに掲載されているデータベースで「弥生時代の絹出土地数」である。いづれも福岡県が突出していること、出土が北部九州のみであることが分かる。
萱島氏は文献に出てくる「絹」について次のように示された。
日本書記 国生み神話 神の体に蚕・桑や五穀が生じた
日本書記 天岩戸神話 アマテラスが機(はた)を織る家で神の衣を織っていた
古語拾遺    養蚕・機織(はたおり)の起源は神代に起こっていた
古語拾遺    アマテラスが天岩戸に籠ったときのお供え物の一つに神の衣「和妙(にぎたえ=絹布)」がある
日本書記 天孫降臨神話 造綿者(わたつくり)あり。(「綿」=「絹綿」)
古事記 ウミサチヤマサチ神話 敷物を敷いて歓待される。その敷物が「絹畳=絹製の敷物」
もちろん「魏志倭人伝」にも下記のような記載があると話される。
『倭人が養蚕・機織りをしていること。倭の女王卑弥呼が魏の皇帝に絹織物を献上したこと。魏の皇帝から絹織物を下賜されたこと』
邪馬台国時代、これだけの「絹」に関する記述があり、北部九州からこれだけの「絹」が出土している。しかも近畿から出土するのは古墳時代になってからである。これもまた東遷説を裏付けるものである。これでは近畿説も、論争ができないので、知らんふりするしかなかろう。「絹」に加え「鉄器」「魏晋鏡」などの出土状況、多くの文献をみれば、近畿説がいかに事実をねじ曲げているかが分かる。今後、近畿説を「呆畿説」と呼ぶことにする。そして「呆畿説」のバカ者がいたら、大いに「絹」の話をしよう。しかし、あまり挑発すると「呆畿説」どもは、今度は「伝世絹」などという笑い話を「ねつ造」するかもしれない。



随筆のページへ トップページへ


日向峠を挟んで伊都国の東側で絹が出土している。
季刊「邪馬台国」 121号

特集「邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した」

『北九州に存在した邪馬台国勢力は、のち東遷して、近畿に入った。その東遷の主体は、物部氏の祖である饒速日の命である』