吉武高木遺跡
(福岡市西区)
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先日、伊都国歴史博物館で、平成26年度・館長講話の第1回が開かれた。本年度のテーマは「邪馬台国以後の"筑紫王権"を考えよう」である。4月から12回にわたって「筑紫王権」の成立から終焉までの講義が予定されている。第1回は、筑紫王権以前の邪馬台国までを振り返るという内容だった。これは去年の年間テーマ「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」のまとめである。駆け足ながら「倭国のあけぼの」〜「魏志倭人伝に見る倭国」を分かりやすく解説された。昨年度の講話を受けていなかった私としては、館長説に依る歴史の流れは新鮮だった。来る6月7日、いとしま市民大学20周年記念シンポ「日本国家の起源を探る」が開催される。今回の講和をしっかり押さえておきたい。講話の中でも吉武高木から、伊都国、奴国への説は、改めて見直してみたいと思わせるものだった。ということで、まずは吉武高木遺跡とはどういう遺跡か、まとめてみた。
吉武高木遺跡は、福岡市西区を流れる室見川中流域の西岸にある遺跡である。昭和58(1983)年から発掘調査が行われ、吉武高木、吉武大石、吉武樋渡など吉武遺跡群が発見された。中でも吉武高木遺跡(弥生前期末〜中期初頭)からは、青銅製の武器、鏡、ヒスイの玉類など"三種の神器"が出土した。これはこの時代すでにクニの王として君臨していたことを伺わせるものである。後に遺跡は国の史跡となり、出土品は重要文化財に指定された。この吉武高木遺跡の傍に吉武大石遺跡(前期末〜中期前半)がある。この遺跡からは、武器類は出土するが、高木遺跡のような装身具は少なく、戦士の墓とみられている。さらに時代は下って弥生時代中期後半、樋渡墳丘墓が造られる。だがこの頃になると、三雲南小路や、須玖岡本が台頭するなか吉武遺跡群は衰退していく。
館長説のアウトラインはこうである。『紀元前108年、前漢の武帝の時代、「倭」地域の覇権を握ったのが吉武高木遺跡(弥生中期初頭/紀元前2世紀頃)の被葬者であった。この吉武高木遺跡からは"三種の神器"(鏡・剣・玉)が出土し、王墓としての体裁が整っている。吉武高木の王は、百餘国の代表すなわち「倭奴国王」として前漢に朝貢する。ところが後漢の光武帝の時代、後漢は国内政策に重点を移し、辺境地域を放棄した。こうした中で吉武遺跡群の政治権力は急速に弱体化していく。代わって急激に台頭したのが須玖岡本遺跡と三雲南小路遺跡の王だった。弥生中期終末(紀元前後)になって突然出現したこの王たちの遺跡からは権力を伺わせる多くの副葬品が出土する。吉武高木の王に代わって倭地域の覇権を確保したのが「伊都国王」であり、その国が「倭国」であった。それは三雲南小路遺跡(紀元前後頃)、井原鑓溝遺跡(100年前後)、平原遺跡(200年前後)という王墓が時系列で存在することから理解できる』
さて、私も古代に思いを馳せ、自分なりのストーリーを考えてみた。吉武高木遺跡で、最も注目されるのが、日本最古とされる"三種の神器"である。これは大陸との強いつながりと、日本におけるクニの始まりを思わせる。威信財としての鏡など、この吉武高木の文化を、三雲南小路や須玖岡本の王たちが継承した。つまりこれは三雲南小路の王は、吉武高木に続く系統の家督相続者ではなかったか。また須玖岡本の王は、三雲南小路の分家ではなかったろうか。三雲と須玖の間に軍事的な緊張の痕跡はなく、関係は良好だったようだ。吉武高木の王が亡くなったのを機会に、糸島平野へその拠点を移したのである。伊都国は、三雲の王以後、井原、平原と代々続く一方で、須玖岡本の王の系列は、その後の有力な首長墓の発見はなく途絶えている。稚拙ながら、こんなストーリーでどうだろう。


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写真上から
・伊都国歴史博物館・平成26年度館長講話テーマ「「邪馬台国以後の"筑紫王権"を考えよう」
・福岡市博物館・考古学講座資料「国史跡・吉武高木遺跡を掘る」(2006/06/03)
・吉武高木遺跡・整備基本計画イメージ図
・吉武高木遺跡周辺風景


吉武高木遺跡の副葬品
細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈、多鈕細文鏡、ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、円形銅釧、有柄磨製石鏃など
吉武高木遺跡:M3副葬品
  (M=木棺墓)

 多鈕細文 1
 細形銅  2
 細形銅矛  1
 細形銅戈  1
 翡翠製勾玉 1
 碧玉製管玉 95
 副葬小壺  1

講座資料より
三雲南小路遺跡(福岡県糸島市)・・・江戸時代の文政5(1822)年に発見され、青柳種信「柳園古器略考」によって現在に伝えられた遺跡である(1号甕棺墓)。昭和49(1974)年調査による新発見のもの(2号甕棺墓)を含めて、前漢鏡57面以上、有柄銅剣・細型銅矛・ガラス璧・玉類など膨大な副葬品を擁する弥生中期後半の王墓・王妃墓である。
須玖岡本遺跡(福岡県春日市)・・・明治32(1899)年に偶然発見され、大石を乗せた甕棺墓には前漢鏡30面以上のほか銅剣、銅矛、銅戈、ガラス璧、玉類など夥しい品々を副葬していた。三雲南小路遺跡と同時代の弥生中期後半の王墓と考えられ、付近に群集する弥生遺跡群を形成した人びとを統括する権力者の墳墓と見られる。