夢野久作 「ドグラ・マグラ」 随筆のページへ

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File No.140328


平成26年1月8日西日本新聞
『夢野久作「ドグラ・マグラ」 初期の自筆原稿発見』。このタイトルが、今年初め、西日本新聞のトップを飾った。「夢野久作と杉山3代研究会」(福岡県筑紫野市)が、九州大学記録資料館に保管されている資料の中から発見したものである。3月8日筑紫野市で開かれる研究会で、この発見の経緯が発表されるというので聞きに行った。研究会が8月〜9月に予定している「ドグラ・マグラ銅版画展」に展示する関連資料を探したことが発見のきっかけとなった。杉山龍丸氏が、父である夢野久作の原稿用紙の裏紙に文章を書いていたのである。発見当初は本当に夢野久作の自筆の原稿かどうかが疑われたようだ。しかし久作の研究者による検証の結果、自筆であることが判明。発見された「ドグラ・マグラ」の草稿は406枚にも及ぶ。中でも大正14年から昭和5年頃の執筆と思われる400字詰め原稿用紙による初期のものが289枚もあったという。
さて、夢野久作(1889〜1936)「ドグラ・マグラ」(1935年)とはどんな小説なのか。当時「日本一幻魔怪奇の探偵小説」というキャッチコピーで売り出されたという。物語は長編にして複雑怪奇である。『私は呆然となった。私は依然として未知の世界にいる未知の私であった。私自身にも誰だか分からない私であった』。当初「狂人の解放治療」という題がつけられたと聞けば、おおまかな予想はつくだろう。物語は夢野久作が福岡出身で、ここで新聞記者もしていたことから、福岡市とその周辺が舞台となっている。記憶喪失の「私」が収容されているのは、九州帝国大学医学部精神病科である。そもそも「ドグラ・マグラ」とは何なのか?小説の中では、すでに廃語となった長崎地方の方言で「幻魔術」のことだと説明している。この「ドグラ・マグラ」を強いて漢字で表現するとすれば「堂廻目眩」あるいは「戸惑面喰」という字を当てるとしている。納得である。
発見された自筆原稿の一部

初期原稿ではラストの表現も違う
『・・・一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へと逐(お)いかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立ち返って参りますので・・・』。この小説では、時間軸が複雑に錯綜する。『・・・この世界は・・・三次元の世界に過ぎないんだが、純主観式精神科学の感ずる世界は、その上に更に「認識」もしくは「時間」を掛け合わせた四次元もしくは五次元の世界が現在我々の住んでいる世界なんだ・・・』。これはまぎれもなくタイムトラベルの世界である。『私は帯を引きずったまま、無限の空間を、スーと垂直にどこかへ落ちていくような気がした』。一つの時計の音が、ワームホールの入口を開き、そこに入り込んだ「私」が見たものは、単に地獄のパノラマ絵を一方向へ見るという単純なものではない。しかも、時計の一つの音が鳴り止む前に、現実の世界に戻ってくるのである。



『・・・人間も学者も同時に御免こうむって、もとのアトムに帰りたくなったのだ』『どうせ自分自身は、電子か何かになって、箒(ほうき)星のお先走りでも承まわるつもりでいたし・・・』。夢野久作が、すでに素粒子レベルで、人間を考えていたことに驚く。私は以前こんなことを書いた。「人間は、最終的に原子まで戻るのか、あるいはクオークまで戻ってしまうのか。中途半端に「遺骨」などという個体の一部で残るなど、私にとっては何の意味もない」、「・・古い部品は壊され、原子分子となって再び宇宙を構成するということを意味している。言ってみれば、生命とは、宇宙で離合集散を繰り返している物質の、ある一瞬に現れた秩序だとも言える」。いずれ太陽は地球をのみ込み、超新星爆発によってすべてが素粒子に還る。その後、我々を構成していた素粒子の一部が、すい星となって宇宙空間をさ迷うことになるのかもしれない。この小説が刊行されたのが、1935年ということに私はそのすごさを感じる。
初期草稿発見の経緯を報告

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「夢野久作と杉山3代研究会」

  第2回研究大会

  
平成26年3月8日〜9日

  
筑紫野市生涯学習センター

「ドグラ・マグラ銅版画展」

10人の銅板画作家がドグラ・マグラに挑む!

(東京)
2014年8月11日〜23日 森岡書店


(博多)
2014年9月14日〜20日 立石ガクブチ店(博多百年町家)