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随筆のページへ トップページへ File No.140219 |
「九州交響楽団」は、福岡市に拠点を置く九州唯一のプロオーケストラである。2013年には創立60周年を迎え、その芸術性の高さから「公益財団法人」の認定を受けた。「あなたの街のオーケストラ」を原点としているように、地方都市に住む我々に、生のオーケストラの感動を届けてくれている。だが存在意義の高さ、質の高さとは裏腹に、経営状態は苦しいようだ。今回の第一部のトークセッション「時代と向き合うオーケストラ」では、このあたりの意見も多く出された。そもそも欧州におけるオーケストラの誕生自体、経営を目的としたものではなく、利潤を生む組織構造ではないという。高い芸術性の維持と、集客力の狭間で苦しんでいる。指揮者、演奏者における高い音楽性の追求か、みんなが知っているような有名な曲で足を運んでもらうのか。2014年度のプログラムは、これを考慮しバランスのとれたものにしたという。 |
クラシック音楽は、その質の高さから、何となく堅苦しく感じる。しかし、描かれているストーリーは、我々が今、何の違和感もなく理解できる人間の本質的な感情や行動を描いたものも多い。今回演奏されたチャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」にしても、パンフレットの解説によれば、政略結婚で嫁がされた姫が、夫の弟と恋に落ち、二人は地獄に落ちると分かっていても愛し合うという内容である。『男女の業(ごう)が、大胆な和声や半音階的要素を多用した旋律、斬新な音楽構成によって見事に描き出されている』と書かれている。考えてみるとクラシック音楽は、100〜200年前の人たちのポピュラー音楽である。そのメロディは、我々が受け入れやすいものも多い。たとえばホルストの組曲「惑星」の「木星」を平原綾香さんが歌った「Jupiter」は100万枚を超える大ヒットになった。クラシック音楽を受け入れる素地はみんな持っている。理解するのはそんなに難しいことではない。 |
音楽も芸術という面から観れば、絵画と何ら変わることはない。スメタナは、モルダウの流れを見て曲を作り、印象派の画家たちは、セーヌ川の水辺で光を捉えた。情景を芸術家のフィルターを通してどう現わすかである。そうして作曲された曲を、指揮者や演奏者たちがどう解釈し、どう演奏するのか。トークセッションの中でパネリストから「200年前の曲の作曲家の意図を再現する。それは芸術なのか」という問題点も出された。だが、それははっきり「質の高い芸術」ということができる。クラシック音楽は、まず指揮者の解釈である。みんなが同じ演奏をするのであれば、指揮者の存在する意味がない。指揮者が伝えた意図を、演奏者が細かいニュアンスまで理解していく。最高の演奏を提供するために、指揮者と演奏者が一体となる。この指揮者と演奏者の信頼関係に、楽器、会場、聴衆までが一体となって、二度と出会えない唯一の音楽が演奏される。それはまさに芸術である。 |
今年のウィーンフィルのニューイヤーコンサートは実に楽しいコンサートだった。さすがに「音楽の都」である。クラシック音楽を楽しむということが深く根付いている。それはオーケストラの目指している姿だといえる。しかし現実は、安定した経営と、公益財団法人としての優れた芸術活動の両立という悩ましい問題が立ちはだかる。トークセッションの中で、山形交響楽団の運営でその手腕を評価された指揮者の飯森氏は「自分たちの仕事にどれだけの集客が見込めるのか、根本的なビシネスの発想を楽団みんなが持っていないと。大事なのは発想と知恵とアイデアです」と言っていた。つまり「活動自体が経済的な利潤を生む組織構造になっていない」という先入観から脱皮しなければならない時である。あの延々と赤字を垂れ流していたハウステンボスが、あっという間に黒字化した例もある。飯森氏は「2ヶ月毎に新聞に出るようなことをやった。しょっちゅうメディアに出るようになったら認知されるようになった」と言う。そうして認知されていくことが社会から必要とされ「公共性」につながっていく。九響の活動理念「良質なクラシック音楽の素晴らしさと感動をお届けし、日本トップオーケストラを目指します」をどこまでも追い続けてほしいものである。 |
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九響CD(2枚組) 「マーラー交響曲第9番」 秋山和慶指揮、九州交響楽団 (2011年11月10日 アクロス福岡シンフォニーホール ライヴ録音) |