メディアアート・エキソニモ 随筆のページへ

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File No.131110

三菱地所アルティアム(天神・イムズ8F)で『エキソニモ「猿へ」』という展覧会が開催されている。アルティアムは、様々な芸術を発信するギャラリーであるが、今回もアルティアムの面目躍如とも言える展覧会である。エキソニモは二人組のアートユニットで、『インターネットそのものを素材として扱い、ユーモアのある切り口と新しい視点を備えた作品でネットアートを軸足に、メディアアートを牽引してきた』と紹介されていた。今回の展覧会はエキソニモの九州初個展で、『人類が最も進化をとげた2000年前後からの一時期に存在したアーティスト、エキソニモの記憶を掘り起こし、なぞっていくかたちで進めてみたいと思う』として、年代を追って彼らの作品が紹介されている。「Wearable Web(ウェブは着れる)」というコンセプトの作品がある。展覧会の作品の数々を観ていくと、それらは仮想空間を現実の世界まで拡張したものだということを感じる。

『「ゴットは存在する」シリーズ 祈(2009)』という作品がある。これは二つの光学式マウスの接地面を合わせたものである。その様子が手を合わせて祈っているようなイメージなのかもしれない。マウスは人間の意思をコンピュータに伝えるものであって、それ自体は意思を持たない存在である。ところがそこでは、二つのマウスの光がお互いに反応しあって、予測不可能な動きが生じる。それは、あたかもマウス自身の意思で、デスクトップ上を動き回っているかのようでもある。
もう一つ『断末魔ウス(2007)』という作品がある。キャプションにはこう書いてあった。
マウスが破壊される時にみせるカーソルの動きを「断末魔」と捉えた。
そのカーソルの動きと、マウスを壊す映像をどちらも記憶し、
その両方をデスクトップ上で再現
一番壊れたマウスは二度と蘇らなかった。
一方、 カーソルは何度でもその死を繰り返しては蘇った。
これは即ち「#猿へ」にある『いづれこの時間から立ち去る私たちは、たとえば、一つの命が消え去っても 変わらない空間は、諸行無常の世界と その上に実装された変わる性質が無い「情報」を生み出した』というメッセージに繋がるのかもしれない。


今月初め、テレビ番組「笑っていいとも」のゲストに、現代美術家・会田誠氏が出演した。この時、会田氏は現代美術を観るときの心得などを話した。

「笑っていいとも」出演の会田氏
「現代美術はお客さんが少ないのが悩み。現代美術というのはそんなに難しいものではなくて、ギャラリーとかタダだし、日曜日の一番カネのかからない娯楽としていいので、是非来てほしい。現代美術というと、芸術とかアートと言うから、最初から立派ですばらしいものであるはずだと思って身構えて観られると、こちらとしては困るところがありまして・・・・・今の芸術というのはいろんなことが試せて、新しい試みの作品が失敗しても、笑って許してもらえるような、そんな自由度の高いジャンルで、最初から立派とかいう風な目で観ない方が楽しめると思うんですよ」
自由度が高い現代美術だからこそ、その発想の豊かさに新鮮な刺激を受けるのである。そこが現代美術の魅力と言える。それは会田氏の「天才芸術家には毎秒毎秒記憶喪失を繰り返すくらいの、精神の鮮度が必要だ」という言葉が言い表している。


エキソニモの作品を観るに、何かフリージャズのイメージと重なるところがある。つまり、はるかに高いレベルの基本テクニックを持ち、それを基盤にプレーヤーの個性や感性でアドリブ演奏をする。イメージとしてはジャズピアニストの山下洋輔さんである。エキソニモも基本となるインターネットに精通し、それをどう彼らの感性で壊していくかである。しかしそれは決して否定ではない。『紙一重で存在する、めくるめく「時」と「空」の叙情詩』。猿から進化した人類は、今、仮想と現実の狭間で揺れている。インターネットに呑み込まれ、ネットなしでは夜も日も明けない日常への強烈な警告なのかもしれない。展覧会の出口付近には「#猿へ」というメッセージが白い壁に映し出されている。私はその投影機の前に立ち、一瞬にして壁を真っ白にした。ネットの世界はそんなことかもしれないという、私の展覧会への勝手な参加である。


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2014/03/12 仮想通貨ビットコイン消失
ビットコインというのは、インターネット上で流通している仮想通貨である。その通貨の取引所であるマウントゴッグス(東京)が、先日不正アクセスを受け、約480億円相当のコインが消失した。カナダの取引所も大量に引き出され閉鎖に追い込まれた。今のところハッキングした犯人は判明していない。この通貨は、文字通り価値の裏付けもなければ、国家の補償がある訳でもない。日本政府も「ビットコインは、通貨に該当しない」との公式見解を決定している。早晩消える運命にあると思われるが、ことほど左様に、インターネット上のデータというものは危ういものである。