古代山城「阿志岐山城 随筆のページへ

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File No.131103

「あしきさんじょう」と読む。福岡県筑紫野市にある宮地岳(標高338m)の北西側中腹にある古代山城である。ここは大宰府の東南東約5qの位置にある。「日本書記」や「続日本紀」などに記述のない「神籠石(こうごいし)系」の山城で、平成11年に民間研究者によって発見されたという。この山城は谷を囲む尾根に沿って造られており、その全体像は、総延長は約3.6km、面積で16.3haの規模と推測されている。筑紫野市が調査した結果、これまでに土塁22ヶ所、石塁3ヶ所が確認されている。平成23年に国史跡に指定されたとは言え、本格的な調査は始まったばかりで、年代、目的、機能など、その全容はほとんど分かっていない。この企画展「発掘!阿志岐山城跡」(10/05〜11/17)が筑紫野市歴史博物館であっているというので行ってみた。嬉しいことに無料で、過日開催されたシンポジウムの資料も置いてあった。
筑紫野市周辺には、阿志岐山城と同様の古代山城が存在する。まず太宰府の北側に「大野城」、南側には「基肄(きい)城」があり、太宰府と博多湾を結ぶ官道には「水城(みずき)」(これは山城ではない)がある。太宰府を取り囲むように造られているのをみると、阿志岐山城も、これらの築城と同時期、かつ築城目的も同じだったと考えるのが無理がない。加えて、対馬には「金田城(かなたのき)」を、熊本県の山鹿には、大野城などへの兵たん基地として「鞠智(きくち)城」を造っている。こうして全体を俯瞰してみると、完璧な大宰府の防御態勢であることが分かる。大野城の築城時期は665年、「白村江の戦い」(663年)の2年後であることははっきりしている。危機感と募らせた大和政権が、最前線基地である大宰府の護りをしっかり固めたのは当然といえる。
築城技術をみると、おおむね当時の技術によっているようである。基礎に土の流出を防ぐための列石を置き、その上に盛り土をしている。土塁の断面図が分かりやすい図で示されていた。説明によれば、種類の違う土を何層にも繰り返し敲き締めながら盛る「版築」という技術が使われている。古代山城はこの方法で造られているのが共通だという。そういえば約100年後の怡土城でも同じ工法が使われていた。ところが阿志岐山城が他の山城には見られない独特の工法がある。それは基底石(きていせき)と呼ばれるものである。列石の下に18p突き出るように基底石を置き、前方に崩れるのを防いでいる。これは国内では阿志岐山城でしか見られない工法だという。「神籠石系」だからこその技術であり、日本には鋭い感覚で創意工夫をした職人が昔からいたということである。
大野城は「日本書紀」に665年築城とはっきり書かれている。ところが一年ほど前の新聞に、大野城の築城年に疑問を呈した記事が載った。それは大野城で出土した木柱が650年ごろに伐採されたというものだった。九州国立博物館のエックス線CTスキャナーで断層撮影して判明したという。そうなるといろいろ議論が噴出する。なぜ15年も前の木材が使われたのか。大野城の築城は650年ごろではないのか。そうすると「白村江の戦い」による緊張感からという理由が成り立たなくなる。怡土城の築城には、12年を要していることを考えれば、そもそもわずか2年くらいで築城が可能かという疑問も出てくる。調べてみると、大化の改新のころから、朝鮮半島に不穏な動きがみられ、警戒感が高まっていたようだ。我が国も唐か百済の二者択一を迫られたということもある。そういうことからすれば、650年ころから山城の築城にとりかかったとしてもおかしくはない。「神籠石系」の古代山城は、阿志岐山城をはじめ、築城年や、築城目的などがはっきりしていない。だが逆にそこに興味の湧き、魅かれるところでもある。


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