邪馬台国が福岡県にあった確率「99.9%」 随筆のページへ

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File No.130803

「季刊 邪馬台国 118号」の特集では、邪馬台国の所在地を新しい視点で探っている。それは「ベイズ統計学」による確率で割り出そうというものである。トーマス・ベイズは、18世紀の数学者で、死後に出された論文をもとに、後の学者がベイズの定理を完成させたものだという。ベイズ統計学は、「結果」から「原因」を推定する統計学、つまり、結果から原因を推定する確率論である。特集では、「結果」すなわち「現在出土し、存在している諸データなどからさかのぼって、邪馬台国の所在地を考える」としている。


諸データは、文章では伝わりにくいので、特集に掲載されているいくつかの表を使わせていただいた。詳しくは「魏志倭人伝に記されている遺物の、福岡県と奈良県の出土状況の比較」をじっくり見てほしいが、下の「弥生時代鉄器出土数一覧」はその状況を端的に表している。この傾向は、「庄内期の鏡」「勾玉」「絹製品」でも概ね同じである。




特集では、まず「鏡」の出土数によって確率を出している。この段階では九州にある確率が75%、近畿である確率が25%である。これに「鉄鏃」「勾玉」「絹」「鉄器」の項目をもって確率を更新させていく。最終的には、下表のように、「邪馬台国が福岡県に存在した確率」は、限りなく「1」に近づき、「奈良県にあった確率」は限りなく「ゼロ」に近づく。特集では「邪馬台国が、福岡県にあった確率 99.9%」と結論づけている。







今号の「巻頭言」にこう書いてあった。『なんでもかんでも「邪馬台国」と結びつけて報道されるのは、助成金や、つぎの発掘費の獲得などと関係しているのであろうか。「邪馬台国」というワードが、邪馬台国ビジネスといったものに、組み込まれているのであろうか。このような方法は、あまりにも、不合理になっているように思う。・・・「マスコミに発表したもの勝ち」的な方法は、科学や学問を、大きくゆがめるものである』。


私は近年の「邪馬台国・近畿説」の学者(?)どもは、その辺のつまらん政治屋どもに似ているように思う。政治屋は、自分の確固たる信念など無い。考えているのは、どこの党から出れば当選しそうかだけである。もっともらしい理由づけは、何とでもなる。「邪馬台国・近畿説」の学者(?)どももまた同じである。まず一握りの“学者もどき”が、真実の探求より、根拠に乏しい自説を力わざでねじふせ、それに合うデータを作り上げる。炭素14年代測定値などはその典型である。その他の“学者もどき”は、確固たる信念など無いから、こいつらの撒き散らす“毒”に、あえて迎合する。真に学問の探究より、そうすることで、居心地のいい居場所を求めるのである。学者なら学者らしく、信念をもって戦え!







古代日本の総合雑誌
季刊 邪馬台国 118号


発売:平成25年7月15日
編集:安本美典
発行:梓書院

特集「激震!邪馬台国論争〜数理歴史学による挑戦〜」
  ベイズ統計学により邪馬台国が九州にあった確率








倭迹迹日百襲姫命は、卑弥呼などではありえない
今号の特集の中で、安本美典先生が「箸墓古墳が卑弥呼の墓ではありえない八つの理由〜この古墳は、四世紀築造の古墳だ〜」を執筆されている。その中の第8の理由に「倭迹迹日百襲姫命は、卑弥呼などではありえない」とされている。「日本書記」では、箸墓古墳は、第七代孝霊天皇の皇女で、第十代崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫の命の墓で、その墓は、崇神天皇の時代に築かれたと記されている。このことから
「魏志倭人伝」や「後漢書」によれば、もとは男子の王がいたが、卑弥呼の時代には男王がいなかったとなっている。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であるとすれば、当時は男王崇神天皇がいたことになり、「更めて男王を立てた」「歴年、主がいなかった」という「魏志倭人伝」や「後漢書」「東夷伝」の記事と、はっきり矛盾することになる
と述べられている。 近畿説が、基本的な資料を無視していることが、いろんなところで出てくる。

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