考古学を疑え 随筆のページへ

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File No.130205

「季刊・邪馬台国」の最新号(2013年1月)の特集は「考古学を疑え」である。内容は旧石器捏造事件を通して、考古学会の問題点を浮き彫りにしている。ねつ造した本人はもってのほかであるが、それを見抜けなかった考古学者たちや、なんの裏付けもない情報に踊らされるメディアなど、考古学会が発する病魔は、広く一般市民まで巻き込んでいる。考古学者に限ったことではないが、学者は言うまでもなく学問を究めることがあるべき姿である。ところが一部の学者たちは、学者である前に、人間として如何なものかという問題のようであるから、腐った根はかなり深い。以前、テレビ番組「たかじんノーマネー」でこう言っていた。学者は(1)自分の間違いを認めない(2)今まで主張してきたことは変えない(3)頭がいいから白を黒と言うのは得意(4)責任はとらない。私はこれを"ポンコツ学者の4要素"と名付けた。人間は、権力と利権を手にすると、何が正しいのか見えなくなる。

特集の中の「旧石器捏造事件考」に記載されている事件の内容を引用させていただく。事件は2000年に発覚した。ある民間研究者が数千年前の縄文時代の石器を、数万〜数十万年まえの地層に埋めて、旧石器時代の遺跡を次々に「発見」したというもの。それは25年間にわたり、180か所以上の遺跡でねつ造されていた。だが問題は、学者が現場で観察し、実測図を描き、写真を撮り、理化学的分析行いながら、そのねつ造を見抜けなかったことにある。出土した石器には「黒色土」や「鉄分」の検出など、旧石器時代には絶対にありえないものが付着していたという。まさに「心ここにあらざれば、視れども見えず」である。つまり"これは旧石器である"という先入観から出発して、それに合った理論を考えたのである。そしてここからが重要なのだが、この異状を指摘した論文は、会誌編集委員会から削除を強制されたという。この事件で問うべきは「学問の本質であり、学界の体質」であると書いている。

"ポンコツ学者の4要素"は、いたるところに、はびこっている。その最たるものが「国立歴史民族博物館(以下、歴博)」である。「季刊・邪馬台国」100号には、こう書いてあった。『歴博の研究報告書第163集は、言語明瞭・意味不明。国民の税金で印刷された怪文書。はじめに結論ありきの、単なるつじつま合わせの報告書。学術論文誌としての要件を満たしていない』。歴博は弥生時代の始まりを紀元前10世紀とし、箸墓古墳の年代を、3世紀中ごろとしている。いづれも炭素14年代測定によるものだが、年代が古くでる土器付着炭化物を試料を使っている。汚染しにくいクルミによる年代修正を加えると、従来からの年代観とほとんど変わらないという。つまり、歴博は都合のいいい試料で、つじつま合わせをしている。前にも書いたが、彼らは自分たちの立場を守ることこそが大事なのである。ウソを重ねている自覚があるだけ、旧石器の異状を見過ごした学者より、たちが悪い。

旧石器捏造事件で、旧石器の異状を見抜いていた竹岡俊樹氏が、ある研究者に「竹岡さんと一緒にやるとみんなに嫌われる」と言われたという。この一言が学会の体質を端的に表している。邪馬台国・畿内説の学者の多くもまたしかりである。「理屈と膏薬はどこにでも付く」と書いてあったが、自分の確たる信念など無い学者が多すぎる。もはやこういう輩を学者と称すること自体、不適切なのかもしれない。「季刊・邪馬台国」116号の「巻頭言」では、マスコミを利用した考古学会の劣化を指摘している。『産・学・マスコミをあげて、異論を封じ込めるような体質。個性のはっきりした意見をもつ考古学者が、いろいろな意味で、ワリを食うようなムラ体質。翼賛体質、付和雷同体質には、大きな問題がある。・・・・このような体質では、学問としての進歩は望めない。・・・考古学は、やがて、世間一般の信頼を失う』。ほんとうにこの言葉をポンコツ学者どもに噛み締めてもらいたいものだ。
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古代日本の総合雑誌
 安本美典責任編集
「季刊 邪馬台国」 (梓書院)
(最新号)
2013年1月発行 第116号

特集「考古学を疑え

竹岡俊樹 「旧石器時代研究の行方」
辻本  武 「旧石器捏造事件考」
石原秀晃 「<神の手>事件は今も生きている」
山口昌美 「考古学への懸念−理化学的手法への対処」
2008年12月発行 第100号記念号

特集「箸墓古墳の年代・虚構の報道」

〜おかしいぞ!!国立歴史民族博物館の炭素14年代、最近の発表〜