福岡現代美術クロニクル
(1970〜2000)
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File No.130122

今、福岡県立美術館と福岡市美術館の共同企画展「福岡現代美術クロニクル1970-2000〜福岡の現代美術、その30年の歴史を回顧する〜」が開催(2013/01/05〜02/11)されている。この両美術館の共同企画は初めてのことだという。福岡という地にあって、地元の作家たちを見守ってきた両美術館が連携し、その現代美術の歴史をふり返る。福岡県立美術館では、1970年代から80年代初めまで、福岡市美術館では、80年代初めから2000年まで作品が展示されている。チケットは両美術館共通なので、一枚で全ての作品を観ることができる。美術館の"はしご"というのもまたいいものである。福岡という地方都市で、どんな作家たちが、どんな思想で、どんな作品と格闘し、既成概念を打ち破ろうとしてきたのか。70年代からの30年間に生み出された85作家の作品130点をじっくり鑑賞した。

福岡県立美術館

市美術館のキャプションの中にこんな言葉があった。「作品は多様な解釈を生み出すための装置です」。県立美術館の展示の中に、内野博夫氏の作品「作品(T)」というのがあった。この作品は1985年に制作したものを、今回の展覧会のために再制作したものだという。この作品に何か魅かれるものがあって、正面から、横から、斜めから、しばし佇んで観た。作品の素材は「鉄(木)」となっていたが、木目の描きだす模様に、不思議な動きを感じたのである。作品の模様は、人と人がひしめいているようでもあり、動物のようでもある。内野氏の紹介には「都市空間における営み、時間の流れを表現する」と書いてあった。都市に人と人が、あるいは、人と動物が、お互いに絡み合うように接点を持ち、時間の経過とともに、すべてが無抵抗に流されていく。この作品からそんな"動き"が感じられ、不思議な感覚に陥った。
秋元久英「生命の根源」

現代美術というものは、べつに才能のある美術家だけのものではない。制約など無く、誰もが自由に挑戦してみることに意義がある。今回、私も自分の部屋でトライしてみた。トライするには、何を表現しようとするのか、そのコンセプトが必要である。そこで、地球上のすべての生命を育む「水」をイメージした。「水」というのは実に不思議な物質である。「液体」「気体」「固体」に変化する。人間の体重の6割は水である。その中に溶けている元素は海水に似ている。その水は気体となって空中を浮遊し、それが雲になり、雨となって森や人を潤す。そんな水を表現するのに、気泡緩衝材を使った。よくプチッ、プチッと気泡をつぶして楽しんだりするやつである。これを天井から吊り、下から昼光色の蛍光灯で照らす。きらきらと輝き、水のイメージが表現できたように思う。その空間を、戦闘機が切り裂き、旅客機が飛ぶ。スターの写真は、雲の上の存在というしゃれである。

江上計太→
「ジョイ・デヴィジョン」
福岡市美術館1F
←牛嶋均
「人力球」
福岡市美術館2F

一年ほど前、現代美術家マルティン・キッペンベルガー氏の「天井から滴り始めるとき」という作品で、とんでもない事件があった。作品は、木を組み合わせた塔の下に、雨の水たまりが乾いたイメージを再現したものだった。作家が全霊を傾け絵の具を塗り重ねたこの模様を、清掃員がピカピカに磨いてしまったのである。極端な例だが、現代美術というのはこの事件に象徴されている。現代美術がもっと市民に受け入れられるためには、多くの人が鑑賞し、自分なりの解釈を楽しむ土壌が醸成されなければならない。アメリカでは「アート・バーゼル・マイアミビーチ」という現代アートの見本市が毎年開催されている。年々規模が拡大し、作家、コレクター、美術館関係者など5万人が集まるという。今回の「福岡現代美術クロニクル」のような展覧会が開催され、多くの人が作家の感性を感じ取り、様々な価値観を見出すきっかけになればいい。そして、福岡が日本の現代美術のけん引役になることを期待したい。



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福岡現代芸術クロニクル・関連イベント
高向一成氏・パフォーマンス
(2013・02・02 福岡県立美術館1F)
去る2月2日福岡県立美術館1Fで「福岡現代美術クロニクル」の関連イベントが行われた。高向一成氏が行ったのは、1980年代に行われたというガラスを割るパフォーマンスだった。
フロアーには、整然と板ガラスが並べられ、壁にも大きなガラスが立てかけられていた。その奥には、何台かのテレビが並べられ、砂あらしの音が大音量で流れている。
そこに高向氏が現れ、整然と並んだ板ガラスを次々にたたき割っていく。スベスベだったガラスは、あっと言う間に、ヒビが入り砕け“破片”となっていく。壁に立てかけてあった大きなガラスもハンマーでたたき割る。大音響とともに粉々になり、小さな破片が床に散らばる。目の前で起きる非日常の“音”と“振動”に圧倒される。
実にインパクトのあるパフォーマンスだった。「作品は多様な解釈を生み出すための装置です」という言葉から、自分なりの解釈を試みてみた。
整然と同じ形に切りそろえられ、一点の曇りもなく磨かれた板ガラスは、「既成概念」ではないだろうか。それを渾身の力でたたき壊し、粉々にしていく。割れていろいろな形になった板ガラスは、新しく生まれた概念である。それはひとつとして同じ形のないそれぞれの個性でもある。その新しく生まれた概念で、既存の文化の象徴であるテレビを覆い隠す。
何かを壊すことはすなわち、新しい何かが生まれることでもある。観ていてそんなことを思った。