古代山城・怡土城 (いとじょう) | 随筆のページへ トップページへ File No.121023 |
福岡県は史跡や文化財が数多く残っている。その中にあって、糸島は歴史的に重要という点からみれば突出している。歴史に興味をもって見渡すなら、これほどすばらしい地はない。先日少しだけだが、古代山城・怡土城跡(国指定史跡)を歩いてみた。好天に恵まれ、抜けるような青空が広がる秋の日だった。怡土城は、高祖山(たかすやま・標高416m)の西斜面290ヘクタールに及ぶ広大な山城である。糸島市では望楼跡や礎石群を廻る山道を、「怡土城跡探訪歩道」として整備している。ところが、"探訪歩道"という名称につられて、軽い気持ちで登ったのが間違いだった。急峻な山の斜面に築かれているだけあって、老体にはかなり厳しいコースである。尾根づたいに残るいくつかの望楼跡も廻るつもりだったが「一ノ坂礎石群」で断念した。怡土城跡の近くに伊都国歴史博物館(糸島市井原)がある。怡土城の復元模型や出土した鬼瓦、土塁のハギ取りなどが展示してある。特に復元模型は、怡土城全容のイメージを把握するのにいい。 |
怡土城跡は高祖山の西側斜面に広がり、東は山の稜線、北は尾根、南は谷、西は山裾の範囲に築かれている。福岡ドーム200個分の広さに相当するという。その広大な山城の周囲を土手などで囲み、その中に望楼や城門などが建つ。南北の外郭線が平地に降りたところで、それを繋ぐ南北約2kmに土塁を築き、そこに城門や水門がつくられている。土塁は高さ10mほどあり、その構造は博物館の"土層ハギ取り"を見るとよくわかる。説明にはこう書いてあった。「基礎工事層の上に整地層さらにその上に粘質土と砂質土を交互に積み重ねた版築層が構築されている」。さらにこの高さ10mの土塁に沿って、幅約15m〜25m、深さ約2mの堀も発見されている。かなり堅固が城であったことが伺える。だが特筆すべきは、その立地条件である。太宰府へ攻め込むには、海岸線沿いを進むか、日向峠を進むか、この二つのルートしかない。その二つのルートを守るのに絶好の位置に、この堅固な山城がある。しかも頂上から見れば敵の動きは一目瞭然である。 |
高祖山(たかすやま) 伊都国歴史博物館より撮影 |
おおよそ怡土城の範囲をイメージしてみた。(注:正確ではない。為念) |
怡土城跡に登る入口に「続日本紀抄」という石碑がある。それによれば、大宰大弐の職にあった吉備真備(きびのまきび)が、756年に築城を始め(ほぼ完成に近づいた764年に造東大寺長官として都に帰っている)、その後を佐伯今毛人(さえきのいまえみし)が引き継いで768年に完成している。白村江の戦い以降、水城や大野城など多くの山城が西日本一帯に築かれるが、それらの山城は、朝鮮式山城と神護式山城に分けられる。しかし、真備の造った怡土城は、ひとつだけ異質で、正式な呼び方はないようだが、大陸式山城などとも呼ばれる。真備は二回(716年、752年)唐に渡っている。唐では儒学や天文学などとともに兵法なども学んでいる。その軍事的な知識によって真備は専当官を命じられ、太宰府への進撃を防ぐ絶妙の位置に、堅固で他に類を見ない山城を造ったのである。 |
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誰が、いつ、どこに、どんな城を造ったかは前述の通りである。しかし最も大事なのは、"なぜ"造ったかである。築城を開始したのが756年である。当時、新羅との関係は悪化していた。しかも、753年、唐における新羅との席次争いで、大伴古麻呂は席次を新羅の上にしたということもある。そんな中で大宰府を守る最前線に築かれたのが怡土城である。その後日本は、礼を失した新羅使を何度か放還している。そのころ都で権力を握っていたのが藤原仲麻呂である。唐で安禄山の乱が起こったこともあり、仲麻呂は新羅征伐の準備を進める。「大宰府をして行軍式を造らしむ。以って将に新羅を伐つなり」。ところが763年安禄山の乱は治まり、翌764年に孝謙上皇との不和から、仲麻呂は反乱を起こし敗死する。結局、新羅への征討は行われなわれず、怡土城での戦闘もなかった。この後、9世紀初めまで城として機能したようだが、いつ廃城になったかは不明だという。 |
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2012・10・25 古代山城・情報 |
先日開催された日本考古学協会の模様が新聞に載っていた。7〜8世紀の遺跡を扱った第3分科会では、古代山城についての発表があったという。 九州歴史資料館の小澤技術主任の、古代山城の3分類試案は次の通り。 『国書に記載された「朝鮮式山城」と、記載がない「神護石系山城」に大別される古代山城について、石塁や土塁の築城技術を比較。共通点や差異を整理し、「朝鮮式」「九州型神護石式」「瀬戸内海式神護石」に分類する』 また、福岡市の加藤埋蔵文化財調査官からの発表は次の通り。 『福岡市西区の金武青木遺跡の発掘成果を報告。奈良時代、この近くに築かれた山城・怡土城の長官クラスのものと見られる木簡が出土したことから、金武地域が国防の最前線である怡土城の築城・運営のために、人や物資を供給後方支援の場であった可能性を指摘した』 |