糸島の原風景 | 随筆のページへ トップページへ File No.120728 |
ににぎの命は、葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために、三種の神器を携え、筑紫の日向の高千穂のくしふる峰にお降りになった。これはその「日向峠」の景色である。弥生時代の平原王墓は、この日向峠から昇る太陽に合わせて配置されていた。一の鳥居から日向峠のほぼ一直線上にあり、現在の測量技術で測ってみても、その誤差は1度以内だという。太陽信仰を考えたとき、この「日向(ひなた)」という地名が大きな意味を持つ。 |
伊都国には世々王あり。平原の女王の前の時代、1〜2世紀ころ井原に王様がいた。王墓を捜し、今も発掘が続けられている。これは井原東付近から糸島峠方向の景色である。重なり合う山、広々とした平野、そこを潤す川の流れ、その自然の恵みの中で生きる人々の家。降り注ぐ光と吹き抜ける風が、その全てを包み込む。日本のなつかしい原風景を思わせる。自然への畏敬の念は、こんな景色を守るため、人々の心に芽生えたものであろう。 |
これは井原西付近から雷山方向の景色である。糸島の肥沃な土地は、豊かな作物を育ててきた。そんな糸島の恵みを届けるためにつくられた直売所「伊都菜彩」は、大きなにぎわいをみせている。一方、井原山や雷山には、自然歩道が整備され、杉やヒノキの林の中で、思いっきり森林浴が楽しめる。先日、二丈一貴山には「フォレストアドベンチャー・糸島」というアウトドアパークが開設された。これも、森を森のまま生かしてつくられているという。 |
『草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ男鹿鳴くも』。これは1200年ほど昔、奈良時代に遣新羅使が詠んだ歌である。“旅がつらく家を恋しく思っていると、可也山の麓で牡鹿が妻を求めて鳴いている”と、さびしい遣新羅使の心を詠んだものである。大陸の玄関口として、2000年の昔から、常に要衝の地であった糸島のシンボル的な眺めである。そこを流れる雷山川の水は、多くの栄養を含み加布里湾の海の恵みを育ててきた。 |
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