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File No.120722

滋賀県大津市の中学校での「いじめ問題」が、大きく報道されている。去年の9月、中2男子生徒が飛び降り自殺した。その原因が同級生3人による"いじめ"の可能性が高いとみられている。「もしかしたら息子は、学校に見殺しにされたのではないか」と、被害生徒の両親が、大津市と加害生徒らに損害賠償請求訴訟を起こした。もちろんカネの問題ではなく、あくまでも真実を明らかにすることが目的である。さらに「暴行・強要・器物損壊・脅迫・恐喝・窃盗」の6つの罪名で刑事告訴にも踏み切った。民事事件と刑事事件では、捜査の方法が違う。双方が徹底して調べることにより、さらに真実に迫ることが期待される。これらの経緯を連日メディアが報道することで、我々にもその実態がおぼろげながら見えてきた。二転三転、右往左往する学校と市教委の情けない対応を見るに、地獄の苦しみで自殺に追い込まれた子供を横目にしながらも、自分たちの評価に傷がつくことの方がより大事だと言わんばかりである。

教師たちは、被害生徒が手足を縛られ、ガムテープで口をふさがれているのを目撃したり、暴力を振るわれている現場に行きながらも、ひと声かける程度の対応でしかなかった。しかも「今後、注意深く見守る」などと実質“放置”したのである。アンケートには「先生に泣きながらいじめを訴えていた」という書き込みもあったという。そのアンケートを実施した学校側は、はっきりいじめがあったと思われる書き込みは、都合よく見落とし、それがバレないよう隠した。納得のいかない遺族の追及で、市教委はやっといじめを認めたものの「自殺との因果関係は不明」と逃げ、調査を打ち切ってしまった。教育委員たちは、この事件の経緯の説明を受けても“思考が停止”しているから、単に"音"が右の耳から入って、脳を通らず、左の耳から抜けていった。こんな状況で学校が掲げていた標語が「いじめをしない、させない、見逃さない、許さない」である。何の意味もない。

ここまで事態が紛糾しているにも関わらず、加害者の同級生三人は「いじめではなく、遊びだった」と全面否認である。加害者と被害者の間には、圧倒的な力の差がある。加害者はその圧倒的な優位を楽しむかのように、いじめをエスカレートさせていく。いじめを受ける側は、まさに出口の無いトンネル、終わることの無い缶けりに追い込まれる。加害者にとっていじめは心地よいものである。どうあることがいじめなのか、加害者側にそれを判断する能力がない。つまりそれは、いじめはあってはならないという教師、学校、教育委員会の論理によって、何をやろうが、見て見ぬふりをし、もみ消しをしてきた結果である。これまでいじめを助長してきたのは、大人社会だと言っていい。この期に及んでさえ教育長は「個人的、家庭的な要因もあった」と学校側と示し合わせたような発言をしている。子供たちに正しい判断能力を与えるのは、すべてを公にし、どうあることがいじめなのかを、より多くのケースで知らしめることである。

立ち回りがうまい教師が校長になり、ゴマをするのがうまいのが教育長になる。教育委員会は、あの体たらくである。ここにめでたく無能な閉鎖的教育社会が出来あがる。真面目に取り組む教師こそが割を食う。被害生徒の父親は「再発防止については"学校任せ"では限界があると感じています」と言っている。今の教師や教育関係者に、被害者の心に寄り添う熱血など、期待する方が無理なのではないか。文科省もまた同じである。問題が公になれば、一応何かしている風を見せる。筑前町のいじめ問題のときも、訳の分からんのが来て、かき混ぜて帰っただけだった。3回も被害届を拒否した警察もまた同じ。事が大きくなって世間から非難されそうになると突然、被害届も出ていないのに積極的に動き出した。結局、いじめを少なくするには、事を世間に知らせ、もみ消しなど出来ないようなシステムにする必要がある。いじめの感覚の無い加害者たちにも、処罰を科すことで、どういう事をすれば処罰を受けるかを、理解させなければならない。




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2012/07/23 掛け声だけでは何も変わらない
今日の新聞に文部科学相がテレビで語ったという内容が載っていた。それによると「特に深刻な事案を学校や教委から報告してもらい、解決策を協議する窓口を設けることを検討する」「文科省からの指導助言を強化する」という方針のようだ。

おそらくこの対策では何も変わらない。時間の経過でまた相も変わらず、「注意深く見守る」という、事実上放置が暗黙の了解になっているだろう。なぜなら、文科省の対策は「学校や教委からの報告」がベースになっているからである。

教室をまとめる力がないから、教師がいじめのターゲットをつくる。泣いて相談しても「お前が我慢すれば丸くおさまる」と逃げる。こんな現場から、問題解決のための真剣な相談があるとは思えない。 いじめ問題が大きく報道されてから20年経った今、何一つ変わっていない。

教育の組織内に良識を求めても、もはや無理だということは我々でも分かる。 精神論では何も変わらない。教師、学校、教委などとは全く利害関係が無く、もみ消しなどできない強い権力を直接介入させるシステムを確立させることが、唯一悲惨な子供たちを救うことになる。

2012/07/25 掛け声だけでは何も変わらな(2)
大津いじめ事件のテレビを見ていたら、校長と教育長が雁首そろえて記者会見をしていた。何を言っても“いじめ”を認めようとしない二人に記者からこんな質問が飛んだ。「では、何があれば“いじめ”と認めるのか?」。

これに対し、校長は言葉に詰まって、助けを求めるように教育長の顔を見た。教育長もまた、何も話すことができなかった。つまり、学校も教育委員会も、何があろうが“いじめ”を認めるつもりなど無いのである。

これは別の事件だが、いじめを受け亡くなった子供さんの親御さんが、情報開示要求をした。開示された学校の記録を見ると、事実とまったく違うことをでっち上げ、原因は家庭に問題があったということなっていたという。

こんな“でたらめ”が平然と行われている。こんな学校、教委からの報告を待っていても何も解決しない。文科省は「この問題を放置しないという強い意志を示すことが大事だ」というが、強い意志など半年も経てば、跡形もなく消えている。