今宿古墳群・徳永B遺跡 随筆のページへ

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File No.120609

今日(6月9日)、今宿古墳群周辺の古墳・徳永B遺跡の現地説明会が行われた。この古墳は円墳で5世紀前半のものとみられている。特徴的なのは、埋葬の主体部に小さな石が敷き詰められていること、副葬品として金鉗(かなはし)が出土したことなどである。金鉗(かなはし)は鍛冶に使用される道具で、熱した鉄を挟むのに使われる。金鉗は、ほかにも元岡古墳群などからも出土しているというが、5世紀前半としては、長さが50cmというのは大きなものだという。他にもピンセット状の鉄器、やりがんな、などが一緒に副葬されていた。これらから推測すると、被葬者は鉄の生産・加工に従事していた工人の可能性があるという。鍛冶工人ではあるが、丸隈山古墳(5世紀前半・85m)のすぐ近くで、10mの円墳に埋葬されていることから、首長に仕える重要な地位にあったことは容易に想像できる。


軍事的にも、経済的にも、鉄製品の生産は、当時はもちろん、時代を超えて重要な産業である。銅の加工に比べ、鉄の鋳造は高い技術を要するが、今宿における5世紀前半の製鉄技術は、どのレベルだったのだろうか。弥生時代に比べれば、かなり進んでいると思われるが、今宿周辺にある砂鉄を加工するだけの技術があったかどうかははっきりしないようだ。元岡古墳群から出土した「庚寅(こういん)」の干支と「正月6日」の日付が刻まれていた太刀は、まぎれもなく日本製で、製鉄技術が6世紀には確立されていたのは間違いない。出土した金鉗のX線写真を見る限り、かなり高度な技術を要するように思えた。もし、被葬者のもとで作られたものであれば、それなりの技術があったはずである。今宿周辺から、製鉄現場の遺跡などが発掘されればはっきりするだろうから、今後の発掘の成果を待ちたい。


説明会資料によれば、今宿地域で4〜6世紀の前方後円墳は7基確認されている。徳永B遺跡のすぐ東隣には「山ノ鼻一号墳」がある。今日は、徳永B遺跡の現地説明会に合わせて、一日だけ特別公開されていた。この古墳は四世紀前半に築造されたもので、一番古い年代のものである。この古墳の後円部はすでに削り取られているが、その下には、弥生時代の墓が確認されたという。担当の方の丁寧な説明で実に分かりやすかった。徳永B遺跡の高速道路を挟んで南側には「若八幡宮古墳」がある。ここは四世紀後半の古墳で、「山ノ鼻一号墳」とともに古式の前方後円墳である。徳永B遺跡の西側には「丸隈山古墳」がある。ここはいつでも石室と石棺を見ることができる。これは徳永B遺跡と同じ五世紀前半の遺跡である。こうしてみると徳永B遺跡の周辺には、右回りに年代順に国史跡の古墳が存在していることになる。


魏志倭人伝には、伊都国には「世々王あり」と書かれている。三雲、井原から3世紀の平原まで続いたことを言っている。ところが上に書いたように、邪馬台国が東遷した後、古墳時代に入っても尚、前方後円墳を造るような権力者が連綿と続いたのである。これは全国的に見てもめずらしいことだという。なぜ何世紀にもわたって強大な権力者の存在を必要としたのか。私はやはり、地勢的なものがあるように思う。602年に来目皇子(聖徳太子の弟)は、新羅討伐のため、二万五千の軍を率いて、嶋郡に来た。邪馬台国の時代、伊都国は「一大率をおき、諸国を検察」していた。この地は大陸を目の前にして、軍事的な緊張状態のときも、文化の受け入れにおいても、交易においても、日本の最前線に位置する要衝だったのである。「徳永B遺跡」に立って、周辺を見回したとき、ふとそんな事を思った。

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現地説明会・資料 古墳1 古墳1・想像図

金鉗(かなはし) 金鉗のX線写真 ピンセット状の鉄器(右)とX線写真