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File No.110412

科学雑誌「Newton」(4月号)の特集は「未来は決定している?」だった。それによるとこの"?"マークが問題で、ニュートンの力学による決定論は、量子力学では通用しないという。ひとつひとつの電子がどこに届くか分からないということは、未来が決まっていないということである。ところがそうすると、非決定論的なミクロの粒子の集合体である物体が、なぜニュートン力学的な動きをするのか。「半導体」の中の電子の動きは、量子力学があるからこそ理解できるが、膨大な数の電子の全体としてのふるまいは完全に予想できる。それは非常に正確な確率の計算によるものだとしている。結論は「世界は、根本的には非決定論的である可能性が非常に高い。しかし現時点では、マクロのスケールに非決定論的な性質がどれだけ影響を与えているのかわからない」というのが物理学からの回答だという。この特集のなかで特に私が注目したのが「未来を予測できないのは、人間の能力不足が原因」という部分である。予測不可能なことがあるのは人間の能力が不足しているためで、現実の世界は決定論的にふるまっていると考えることができるとしている。


私は、人間が現世で生きているのは基本的には「決定論的」と考えている。魂が人間としてこの世に生まれるとき、その人生のレベルは決定しており、そのレベルを遂行するに必要な能力、環境の全てが既に決定されている。その決定された人生のレベルは、過去、未来と合わせて「ゼロでバランス」している。それは「無」の状態を維持しつつ、わずかな揺らぎがあっている状態である。ところが、世の中そう単純ではない。個人の人生に影響を与えているのは複雑怪奇、それこそ能力不足で予測が不可能である。つまり、「二重スリット」で、電子が干渉によって未来が決定できなくなるのと同じである。だからこそ、規定路線を維持するためには、異次元からのコントロールが必要になってくる。あるいは、規定路線以上のレベルを生きようとすれば、現世だけでゼロバランスしなければならないから、それなりにハードなことも受け入れなければならなくなる。私の「決定論的人生」と「ゼロバランス」は、当然のことながら、学問的な裏付けがある訳ではない。だがこれは実際に私が生きてきて感じ取った経験値である。その考えを当てはめると、私としてはすべてがうまく説明がつくのである。


魂は個体から離脱して生き続けるわけだが、その時点で個体はもはや人間としての意味を持たない。スタインベックは「電子はどこにでも自由に動ける。だが、無慮の電子からなる集合体の運命共同体の行く末は遅かれ早かれ決まっている。最終的には必ず腐り、不滅とされる電子が去って崩壊してしまう」と書いている。人間は、最終的に原子まで戻るのか、あるいはクオークまで戻ってしまうのか。中途半端に「遺骨」などという個体の一部で残るなど、私にとっては何の意味もない。さて、意識によるヒトの存在はどうなのか。哲学者・フッサールは「認識」とは、知覚による情報から意識がつくりあげたものだという。先月私は「人間は魂までも認識する深い精神性を持つ」と書いた。魂も宇宙も、認識することで初めて存在する。ヒトとしての存在も、その周りにいる人の認識と自分自身の認識で存在する。だが「死は唯一、確実な未来の可能性
(ハイデッガー)」である。そうすると、後に残された人の意識の中にのみ存在し続けることになる。魂は時空を超えたところで生き続けるとして、個体は素粒子レベルまで崩壊し、認識する人がいなくなることで、現世から私という存在は完全に消滅する。


私は来々世、思いっきりハイレベルの人生を送ろうと思う。そのためには、来世はかなり我慢の人生になりそうだが仕方がない。その来々世だが、是非とも日見子と出会う人生を設定しておきたい。だが、他の人の人生まで設定はできない。今お願いしたところで、現世での個々の記憶は消えてしまう。そこが難しいところだ。「恐怖」というのは、一瞬にしてトラウマが生じるほど、魂にインパクトを与える。だが"心安らか"なことは、そうはいかない。じっくり熟成し、しずかに心の深い部分に落し込まなければならない。スポーツで「明日につながる試合」という言葉がある。今日からプロ野球が開幕したが、特に野球でよく聞く言葉である。明日の試合に向けて、いい感触をもって今日の試合を締めくくるというような意味である。そういう意味で定年後の今、私は明日につながる試合の真っただ中である。はたして、この試合が来々世につながってくれるだろうか。その時、まさかの非決定論で押し寄せた波の干渉であらぬところに行きついてしまわないとも限らないのだが。
しかし、今出来ることは、とにかく魂に刻み込むほどの最善を尽くしておくことである。

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