文部省唱歌「汽車」
(明治45年尋常小学唱歌)
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File No.091116
西日本新聞に50回にわたって連載された随筆「イタリアの街角より」(筆者・陣内秀信氏)が先日終わった。その最終回にこんなことが書いてあった。“ 「・・・・先生が「日本の風景は歌にある通り、実に変化に富んでいるんだよ」と言って、歌い始めた。「今は山中、今は浜/今は鉄橋渡るぞと/思う間も無く、トンネルの/闇を通って広野原」この体験は強烈だった。日本の風景の豊かさを私は、イランで教わった。・・・・ 」 ”私は、これを読んで、JR筑肥線の変化に富んだ風景が浮かんだ。

文部省唱歌を改めて、見なおしてみると、日本のなつかしい原風景が歌われている。作詞されたのは、明治から大正、昭和初期ころである。ほとんど昔ながらの風景そのままの時代である。大正2年の文部省唱歌「冬景色」の歌詞はこんな風である。美しい景色が目に浮かぶ。

1、さ霧消ゆるみなとえの  舟に白し朝の霜  ただ水鳥の声はして  いまださめず岸の家
2、烏なきて木に高く  人は畑に麦をふむ げに小春日ののどけきや  かえり咲きの花も見ゆ
3、嵐吹きて雲は落ち  時雨降りて日は暮れぬ  もし灯火のもれ来ずば  それと分かじ野べの里

すぐ隣の銀河「アンドロメダ」まででさえ230万光年もある。この広大な宇宙の中で、奇跡の星である地球。地軸が23.4度傾いているため、四季が生まれた。その春夏秋冬が廻るなかで、同じ景色でも四季それぞれの違った顔を見せる。花々が咲き乱れ、若葉が青々と繁り、紅葉で山々は真っ赤に染まり、やがて銀世界になる。日本は世界の中でも、この四季の恵みを最も享受してきた国である。奇跡の地球の中にあって、日本列島の位置は、さらに奇跡的だと言える。文部省唱歌には、この四季が育んできた、豊かな日本の風土が歌われている。

JR筑肥線は、姪浜から、玄海国定公園を駆け抜ける。市街地から郊外へ、田や畑を抜けて、虹の松原などの白砂青松へと変化に富む景色が楽しめる。まさに唱歌「汽車」のなかの「・・・・廻り灯篭の画のように、変わる景色の面白さ・・・・」である。そこで、筑肥線沿線の風景を、歌詞に合わせ「103系」と共に撮ってみた。 歌詞に合わせたので、真に沿線の景色を表現できた訳ではないが、「汽車」に歌われた日本の風景をあらわしてみたのでご覧いただきたい。

♪今は山中
♪今は浜

♪今は鉄橋渡るぞと
♪思う間もなくトンネルの
♪闇を通って広野原
♪遠くに見える村の屋根
♪近くに見える町の軒
♪森や林や


♪田や畑
♪後へ後へと飛んでいく
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「全国町村会・福岡県町村会 意見広告」  (2009・11・18西日本新聞掲載)
日本人よ、故郷をなくしてどこへいくのですか。
私たち、日本人は、古代から自然との共生を大切にしてきました。自然をさまざまな形で神として敬い、祭をおこない、習俗を継承し、共同体をつくってきました。そして、そのなかで、豊かな情感、繊細な美意識、優しいもてなしの心などを育んできました。農村や山村、漁村。それは、まさしく日本の原風景、日本人の心の原点なのです。

このかけがえのない「ふるさと」が、いま、危機に直面しています。過疎化、少子高齢化が一段と進み集落の賑わいは消えました。地域の祭りや伝統芸能も失われようとしています。そして、農林水産業の衰退や地域経済の低迷といった厳しい状況にも好転のきざしは見えない・・・・。地方は元気になるどころか、逆に活力を失っています。

農山漁村は、水源の里として、豊かな実りの場として、海の恵みを受け手として、自然と折り合う技や知恵を蓄えながら、無数のいのちを育み、美しいふるさとの山河を必死に守り続けています。そして、いまや新しい暮らし方となりわい創出の舞台にもなっています。私たちの生活を支えているのが、これらの地域なのです。いまこそ、農山漁村の持つかけがえのない価値をあらためて認識し、後世に引き継いでいかなければなりません。

「平成の合併」でかつて2600ほどあった町村は、1000弱にまで減少しました。そして、もっとも身近な日本人の遺産といわれ、歴史の中で愛され、誇りとされてきた多くの町村名も、消えました。効率だけを追求し、市場主義に偏った制度改革で突き進んだら、もう後戻りはできなくなります。
「ふるさと」を失うことは、「日本」を失うこと。日本人のアイデンティティーを永遠に失うこと。わたしたちは、そう確信します。