邪馬台国フェスタ 随筆のページへ

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File No.091014

昨日(2009/10/13)アクロス福岡(福岡市天神)で「邪馬台国フェスタ」というシンポジウムが開かれた。これは、福岡県が開催している「ふくおか県民文化祭2009」の文化一般のイベントとして催されたものである。まず、安本美典先生をはじめとして、奈良文化財研究所の小澤毅先生、金属考古学者の新井宏先生、北海道大学の吉田知行先生の4氏の基調講演が行われた。安本美典先生は言わずと知れた「邪馬台国九州説」の第一人者である。大学教授定年退職後、現在は「季刊 邪馬台国」(梓書院)の編集長をされている。小澤毅先生は、奈良文化財研究所の遺跡・調査技術研究室の室長職だそうだが九州説である。新井宏先生は、金属考古学者と書いてあるだけあって、理系の視点からの考察は納得だった。吉田知行先生は、数学者の視点から三角縁神獣鏡や箸墓の年代を考察された。今回の先生方は、みんな九州説もしくは九州説に理解を示す方々だったので、集中して気持ちのいい四時間半を過ごした。

このシンポの副題が"〜いま、科学があきらかにする〜"となっていることから、これは絶対「炭素14年代測定法」(以下・C14法)の問題が出るに違いないと期待していた。その期待通り、安本先生からは、国立歴史民俗博物館(以下・歴博)発表の経緯や、その発表に対するメディアや世間の反応などの詳しい話を聞くことができた。やはり、かなりC14法の結果を恣意的に使い、学会の通常の流れを踏まずメディアを利用したアンフェアーなものだったようだ。安本先生と歴博の公開討論の企画に、歴博は応じなかったという。日本考古学協会の理事の方も「私がなぜ歴博グループによる先日の発表を信用しえないと確信するに至ったか・・・・怒りは収まりそうにないので・・・・」と発言されているという。新井先生も「弥生中期以降の歴博の発表を全て検討した結果は、時期によらず、場所によらず、歴博が繰り上げた年代よりもさらに100年も200年も古く出ている」と実際に分析された結果を示された。これを踏まえた上で新井先生は「今回のC14法は、もう間もなく歴博は白旗を揚げるだろう」と言っておられた。

の表は安本先生の資料のなかの一つである。これは「魏志倭人伝」に記載されているものに関係する遺物の、福岡県と奈良県の出土数の比較(大略西暦300年以前の弥生時代の遺物)である。当時の戦争が鉄の武器であったことを考えれば、この表一つだけでも、九州説を強力に確信させるに十分である。しかも「県別にみた鉄器の出土数」の表では、熊本県の出土数が福岡県に匹敵している。つまり、これは邪馬台国と狗奴国の激しい戦争を思わせる。当時は、当然白兵戦であるから、甘木と菊池郡なら無理なく説明できる。奈良と九州の古代道が整備されるのは、七世紀の天武天皇の時代である。まさか三世紀の奈良の勢力が、憲法9条のもと何の武力の裏付けもなしに、外交で制圧した訳ではあるまい。また、狗奴国が遥か彼方の奈良へミサイルを撃ち込んでいた訳でもあるまい。近畿説の方々は、都合が悪いので狗奴国のことは全く触れないらしい。新井先生曰く「考古学は、都合のいいものをもてはやし、都合が悪いと無視をする」。

小澤毅先生曰く「魏志倭人伝を見れば "邪馬台国は九州"、考古学の人たちは魏志倭人伝から離れている」。小澤先生の話は、素人の私にも実にわかりやすかった。吉田先生もシンポの中で「小澤さんの説は、聞いていて非常に自然である」とコメントされていた。小澤先生は、奈良文化財研究所にいながら、れっきとした九州説である。新井先生もご自分の講演の主旨のなかで「私にとっては、論理的な思考が大事なだけで、権威による"ごまかし"が大嫌いなのです」と話されていた。どこに居ようが、どんな状況だろうが、自分の研究に基づく信念を曲げることなく主張される。実に立派である。だいたい近畿説を表舞台で論争しているのは一握りの先生方だと聞く。となれば、大半の人は、どうあるのが居心地がいいか、風あたりが少ないか、様子を見ながら自分のポジションを決めているのではないのか。もしそんな学者や先生が九州にいらっしゃるのなら、とっとと九州から出て行ってもらいたいものだ。「九州には、おめえらに吸わせる酸素はねえ!」。


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「魏志倭人伝」に記載されているものに関係する遺物
福岡県と奈良県の「出土数」の比較
諸遺物 福岡県 奈良県
弥生時代の鉄鏃 398個 4個
鉄 刀 17本 0本
素環頭大刀・素環頭鉄剣 16本 0本
鉄 剣 46本 1本
鉄 矛 7本 0本
鉄 戈 16本 0本
素環頭刀子・刀子 210個 0個
邪馬台国時代に近い頃の銅矛・銅戈
(広形銅矛・中広形銅矛・中広形銅戈)
203本 0本
絹製品出土地 15地点 2地点
10種の魏晋鏡 37面 2面






小山田宏一氏のデータによる 45面 0面
樋口隆康氏のデータによる 5面 0面
奥野正男氏のデータによる 3面 0面
ガラス製勾玉・翡翠製勾玉 29個 3個


2009/11/13 九州国立博物館 「古代九州の国宝展」

図録

国宝「金錯銘鉄剣」の実物が、11日から展示されたので行ってきた。目を皿のようにして、しっかり見てきた。展示の横に、剣に記されている文字がわかりやすく書かれていたので、私にも容易に理解することができた。

九州の貴重な出土品が、一堂に会するのは、二度とないというので、図録も買った。図録には「野帳」と「鉛筆」のおまけが付いていた。「野帳」は3mm方眼罫のノートで、発掘現場では必須アイテムだという。「野帳」にも「鉛筆」にもちゃんと「九州国立博物館」と印刷されている。いい記念になった。



展示室には、いろいろ説明文が書かれている。その中から、興味深いものを紹介しておこう。
・・・・古代九州の歴史的な役割は、今日の日本という枠組みが形成されていく段階での先進性にあったと言えます。・・・・九州は常にその地の利を活かし、海を超えた人の往来や物の受け入れを第一線で担って来ました。邪馬台国に始まる国家形成の推移もまさに九州から始まったと言えます。
九州は日本列島の西の端に位置しているが、アジアや西洋に最も近いため、古来より人やモノの往来が盛んであった。新しい文化は常に異文化と接触する交流の最前線で誕生する。九州はまさにそのような場所であった。・・・・
邪馬台国についてもこう書かれていた。
[文献史学からみた九州説]
○「魏志倭人伝」の記事は九州を対象としたもの
倭国を南北軸でとらえており、地理的に九州を念頭に置いている。
東の倭人(倭種)については存在を記しているが、記述の対象としていない。
○邪馬台国へ至る記述は伊都国からは放射状
狗邪韓国から伊都国までと奴国から邪馬台国までは方位と里数の書き方が違う。
○当時九州を支配したような統一国家は形成されていない。
朝鮮半島も分立国家状態であった。倭だけが統一国家を形成していたとは考えられない。仮にそういう統一国家があれば、地方官制が敷かれたことになる。その証拠はない
[結論]⇒魏志倭人伝を素直に読むと九州しかありえない。
[考古学からみた九州説]
○三角縁神獣鏡は卑弥呼のもらった鏡ではない
すでに500枚以上交易で入手した。
○鉄器・絹について記されている
これは九州で圧倒的に出土している。
○弥生時代後期後半の集落、墓の様相は「魏志倭人伝」と同じ内容
例えば、吉野ヶ里遺跡の楼観、城柵など
[結論]⇒出土物の状況は九州優位。



2009・11・12 纏向遺跡で大型建物跡が出土したと言うが・・・・
西日本新聞に掲載された、九州説側の反論は下記の通り。
・・・・・だが高島学長の本音は異なる。「纏向遺跡で出土した土器の年代は実際より古く解釈されており、問題がある」と指摘。
 考古学では土器が年代を決めるための重要な物差し。「纏向では一緒に見つかったほかの遺物との整合性が取れていないケースもある」とした上で、今回の大型建物跡について「卑弥呼とは時期が違う。4世紀以降のものではないか」と反論する。
 同志社大の森浩一名誉教授(考古学)も九州説。「魏志倭人伝」は朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国へのルートとして、末盧国、伊都国、奴国などを経由すると記述。いずれも現在の玄界灘沿岸と推定され「倭人伝には九州北部のことしか書かれていない」と強調する。
 九州北部は1世紀には既に大陸との外交があり、貴重な鉄器や銅鏡が豊富に出土、有力勢力があったことがうかがえる。邪馬台国をほうふつとさせる吉野ヶ里遺跡(佐賀県)などの大集落跡も多く確認されている。・・・・・
ウソにウソを積み上げていく近畿説の先生方。「旧石器発掘ねつ造事件」からは全く学習されている様子がない。学者などと言う前に、人間を一から学びなおした方がいいのではないか。