映画「まぼろしの邪馬台国」を観て 映画のページへ

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FileNo.081107
この映画は試写会で観たが、映画館でもう一度観てきた。島原鉄道の社長だった宮崎康平氏が、失明しながらも妻和子さんと、助け合い、補い合って力強く生きぬいた物語である。宮崎和子さんは、今も元気で島原で活躍されている。主演の吉永小百合さんは、宮崎和子さんと対面して、辛いときや苦しいときも前向きに生きていく和子さんのその姿勢に惹かれたという。そういうこともあってか、撮影現場の小百合さんは、実に明るく映画づくりを楽しんでいるかのような印象さえ受ける。これは、竹中直人さんという明るいキャラクターが、小百合さんの別な一面を引き出したとも言えるだろう。しかし、それにも増して、堤監督の映画作りのスタイルと監督自身の人柄が、二人を生き生きとさせたのではないかと私は思っている。それこそが、「二人が手をとり合って、苦難に立ち向かい、乗り越えていく」という映画の根底に流れる“夫婦の絆”を描くための、もっとも重要なベースであろうから。

昭和31年、長浜和子は福岡の放送局で、ラジオのパーソナリティとして活躍していた。その番組にゲスト出演した宮崎康平。目は不自由ながら、和子の顔をさわって「べっぴんたい。声もよか」と和子を気に入る。和子もまた変わり者だがパワフルな康平の人柄に惹かれる。康平の「島原へきんしゃい。いづれ島原でな」という言葉に誘われ、一ヵ月後島原鉄道のバス事業を手伝うことになる。バスガールの教育部長を命じられ和子は、自分も経験がない、ましてやバスガールを目指す地元の女性たちも全くの素人。しかし苦労しながらも、指導の甲斐あって、観光バス事業も軌道にのっていく。ところが、突然襲われた集中豪雨で、島原鉄道は、線路は寸断され、多くの鉄橋が流されてしまう。その復旧作業のなかで発見した土器が、康平を邪馬台国探しへとのめりませていく。最後に康平が見る夢の中に、小百合さん扮する卑弥呼が出てくる。これは必見!三世紀の邪馬台国でカリスマとして君臨した卑弥呼役に、これ以上のキャスティングはない。

康平氏は、邪馬台国を島原半島の吾妻町(雲仙市)を中心として諫早湾岸に比定し、投馬国は天草の本渡市としている。そこで問題になるのは、魏志倭人伝の「南邪馬台国に至る。女王都する所。水行十日、陸行一月」である。康平氏はこれを「水行ならば十日、陸行ならば一月」と解釈している。「伊都国から有明海まで水路でつながっていたとたい」と、水行の場合の経路は、当時博多湾と有明海の間に水道が通っていたので、邪馬台国へも航行が可能だったとしている。陸行の場合は背振山を越えて佐賀から有明湾岸沿いに邪馬台国に行くとしている。これで分かるように、康平氏の魏志倭人伝の各クニへの距離は、「放射説」であり伊都国からそれぞれのクニへの距離としている。したがって「南投馬国に至る。水行二十日」は伊都国から、水路を通って、本渡市までの所要日数である。邪馬台国を吾妻町中心としたのは、弥生時代後期の遺跡群や、ヤマタにかかわる古い村名なども根拠の一つとなっている。

「“まぼろしの邪馬台国”の第2弾を出す。いよいよ邪馬台国の決定打や」と、再び動き出す二人。第一回吉川英治賞の授賞式では、「これは康平さんと、康平さんを支えた奥さん二人に与えられるものである」と賞状が授与される。雲仙の仁田峠から有明海を眺めながら、康平は和子に静かに話す。「わし一人では何にも出来んかった。わしは本当は邪馬台国はどげんでんよかと。お前とゆっくり旅をしとることが一番楽しか。永遠につづいてほしか旅たい」と心情を吐露する。康平のその気持ちに応える和子の心は、最後のシーンに表れているように思う。康平が最期を迎えた卑弥呼の墓と思われる台地に立ち、静かに“島原の子守唄”を歌う和子。その胸に染み入る子守唄は、最良の伴侶だった康平への語りかけである。その表情はあくまでも満ち足りておだやか。あたかも康平との旅は心のなかで永遠に続いているかのようである。


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2008/11/12 「笑っていいとも」・・・・「メイクダウト」コーナー
今日のメイクダウトは、おすぎ厳選の映画関連エピソード特集で、ゲストは映画「ハッピーフライ」から、綾瀬はるかさんと田辺誠一さんでした。この設問の中に「超難問にタモリが挑戦!大女優・吉永小百合のヒミツ」というのがあり、それを選択したのは、当然タモリさんでした。
その問題とは「吉永小百合さんが早稲田大学在学中に書き上げた卒業論文のテーマとは?」というもの。司会の千原ジュニアいわく「これは超難問も超難問。これを今から即興で三択クイズにします。簡単に言うとスタッフの嫌がらせです」
その即興でつくったタモリさんの三択クイズとは次の通りです。
 (A)エピクロスとアナクシメネスとの間にある言語選択の類似性について
 (B)プラトンの自省録の中にあらわれた、政治と倫理の問題
 (C)アイキュロスの「縛られたプロメテウス」におけるアテネの民主制について
これが即興なんです。なんと見事なことか!!(会場は“すごい”の合唱でした)
あまりの難しさにADさんが、ボードにそれを正確に書くことさえできませんでした。
正解は「(C)アイキュロスの「縛られたプロメテウス」におけるアテネの民主制について」でした。
正解発表のあと掲げられたパネルにはこう書いてありました。
 ☆アイキュロス・・・古代アテネ三大悲劇詩人の一人
 ☆アイキュロスの作品「縛られたプロメテウス」から読み取った当時のアテネの民主制について述べた難易度の高い論文
タモリさんもすごかったが、小百合さんのこの難易度の高い論文というのにも驚かされました。ちなみに、小百合さんのお父上は東大卒と聞いています。小百合さんも芸能界に入っていなければ、きっと“ミス東大”になっていたのでは・・・。
昭和60年に小百合さんが、ラジオ番組にゲスト出演したときのテープ
この番組は約40分ほどにわたり、サウンドトラックからのセリフやヒット曲をはさんで、小百合さんがデビュー当時の思い出や映画に対する思いを語った貴重な録音である。映画生活25周年で、前年「おはん」や「天国の駅」で数多くの映画賞に輝き、このあと「夢千代」や「玄海つれづれ」などの予定が入っていたころでものだ。カセットのインデックスカードは当時私が一番お気に入りの鈴木英人のイラストのものを使っていることからも、私がこのテープを大事にしていたことが伺える。
このとき小百合さんはこんなことを言っている。
「・・・その齢、その齢なりの雰囲気を出していかないと人形になってしまいますので、生身の女を画面に出したいと思っているんです」
「・・・攻撃的と言うか、少しずつ今までの自分と違ったものを出していきたいなと思っているんですね。あまり気持ちが守勢にならないで、だからやってて面白い・・・」
いま聞いてみても、現在まで小百合さんの映画に対する考えや姿勢に、女優としての軸が微塵もぶれるところがない。そこが小百合さんのすごいところだ。上の言葉を今回の「まぼろしの邪馬台国」にあてはめたとしても全く違和感がない。
小百合さんのゲスト出演が終わった後、パーソナリティがこんな会話をしている。
「吉永さんと長々と話をして大変気持ちがよかった。若いときにあの人は、デビュー当時からさわやかで、明るくて優等生的な感じがあって、いまだにそれを持っているという感じを受ける、と同時にだんだん感情的にふくらみが出てきたということを感じましたね」
「とてもはっきりとご意見をおっしゃる方だなということと、ご自分を客観的にご覧になっている」
「そうそう、ティーンの時代から頭のいい人だったんじゃないかなと思うけど、自分でやっているのを冷静に客観的に見ている面があってね、かってそのことを僕は感心したことがあったんですよ」
2009年カレンダー

(前売り券に付いていた)

島原鉄道
「まぼろしの邪馬台国」号

諫早駅に掲示されたポスター
「ようこそまぼろしの邪馬台国玄関口へ



昭和40年頃の小百合さんと、エピソード(平凡及び平凡の付録より)
吉田学校の優等生
吉永さんが歌うスターの仲間入りをしたきっかけ、それは日活映画「ガラスの中の少女」の中で、小百合さんが歌わなければならないシーンがあったのです。 お母さんがピアノの先生をしているだけあって、小さいころからピアノも上手だし、声もきれいでした。そのころ日活のプロデューサーの間でしばしば話題になっていました。 ビクターの武田京子ディレクターに連れられて吉田正先生のお宅に行き、歌った曲が「北上夜曲」でした。きれいでかわいらしい声の印象が吉田先生の心に残り、レッスンに通う小百合さんはあっという間に吉田学校の優等生になりました。「いつでも夢を」「そこは青い空だった」と橋幸夫さんとのコンビが次々に生まれました。
小百合さんとピアノ
日本でのすべてのおけいこごとは、六歳の六月六日から始めるならわしなっていますが、小百合さんがピアノを始めて弾いたのは、それよりも少し遅く五線紙の上に、大きなおたまじゃくしが四つ並んでいたのが大変印象深かったそうです。去年の7月、NHKの「黄金の椅子」で、はじめて小百合さんのお得意のベートーベンの「ソナタ」やその他のピアノ曲集がひろうされ、ファンや並みいる関係者をアッと驚かせました。


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