邪馬台国・九州説 |
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今日は、伊都国歴史博物館で「邪馬台国・九州説」の講座があった。定員100名だったが、詰め込めるだけ詰め込んで、おそらく200名近く入ったのではなかろうか。昨年の埋蔵文化センターの「邪馬台国への道」シリーズの人気ぶりも大変なものだったが、さすがに、福岡県は古代史ファンが多い。福岡県には、魏志倭人伝の伊都国、奴国、不彌国がある。さらに、その他のクニの最初に出てくる“斯馬(しま)国”は、「翰苑」によれば伊都国の隣にある。そんな背景もあってのことと思うが、福岡県は昨年秋から「邪馬台国論争」に本格的に参戦している。麻生知事の「邪馬台国を論じて欲しい」との意向で3年をかけ、「九州説」を検証する。すでに3回シリーズの歴史講座も開催中で、今月20日には第3回「遣魏使節の外交とその意義」があるので聴きに行く予定である。来月(3月2日)には「邪馬台国徹底検証」として“対決!九州VS畿内”も催される。盛り上がる素地は充分であり、福岡県の参戦は自然の流れと言える。
今日の講座では、次の四つの九州説を紹介された。(1)筑後・山門説(2)筑後・甘木、朝倉説(3)筑後・久留米、八女説(4)肥前・吉野ヶ里説の四つである。佐賀県の吉野ヶ里以外は、いづれも筑後(福岡県)にある。西谷先生によれば、(1)の山門説は、いまでは影を潜めているという。(3)の筑後、八女説は、高島忠平先生の説である。現在、西日本新聞で“聞き書きシリーズ”として高島忠平先生の「地を這いて光を掘る」が連載中であるが、第70回の中で「“磐井”の本拠地だった久留米から八女にかけてではないかと思っている。卑弥呼の後身が磐井だとは言わないけれど、後の時代に政治的な拠点を作り得た地域を考えてみてはどうかと思うんです」と述べられている。さらに、「邪馬台国は、吉野ヶ里の物見櫓から見えるところにある、というのはわれながら名言で、足元の吉野ヶ里であっても構わないし、一望できる筑紫平野であってもいい」とされている。となると私の支持する(2)筑後・甘木、朝倉説(現・朝倉市)も吉野ヶ里から一望できる範囲内に入っている。
最初に私が邪馬台国に興味をもったのが、安本美典先生の甘木説で、以来甘木説支持はまったく変わっていない。“夜須町のまわりの地名と、大和郷のまわりの地名が見事に一致する”というのを見たときの衝撃は大きかった。それだけではない、夜須川(天の安川)など神話に出てくる地名の一致、魏志倭人伝に記載された卑弥呼の居館を思わせる平塚川添遺跡の発見など、おそらくこの先も揺らぐことはないと思っている。今日の講座の資料の中にあった平塚川添遺跡発見時(1992・12・16)の西日本新聞の記事にはこう書いてある。「吉野ヶ里が魏志倭人伝を裏付けたように、平塚川添遺跡もまたこれらの史書の記述を物的に照明する貴重な手がかりと言える。・・・・甘木・平塚川添遺跡は、邪馬台国九州説を有利にする物証として、ロマンに彩りを添えるだろう」。甘木は、北部九州のほぼ中心に位置し、邪馬台国連合三十国の分布(連載第69回)から見ると、丁度“扇の要”の部分にあたる。伊都国、奴国、吉野ヶ里から見れば、奥座敷と言ったところだ。この絶妙な位置は、邪馬台国の存在意義を現しているように思えてならない。
平塚川添遺跡は、弥生時代後期になって、多重環濠などがつくられ拡大していくが、古墳時代の初頭には環濠もなくなり、廃絶している。つまり、これは卑弥呼の時代に拡大し、その後台与の時代に東遷したためそのクニの存在意義がなくなり衰退していったと考えれば無理がない。また、狗奴国との戦争で卑弥呼が死亡した時期かその直後、平塚川添遺跡のすぐそばの山の上遺跡は焼き討ちにあっている。邪馬台国の存在と平塚川添遺跡の盛衰は微妙に一致している。私は、邪馬台国というクニは、卑弥呼擁立にあたって、連合国統治のために計画的につくられたクニだと思っている。本来なら伊都国を首都にするところだろうが、三十国を納得させるには、新しいクニをつくる必要があったのではないか。言ってみれば卑弥呼は、伊都国から新しいクニへの天下りであり、“婢千人”も、各クニからの派遣だろう。高島先生は(連載第70回)「魏志倭人伝には邪馬台国が“最大”とか“先進”とか書いてある訳じゃない」、さらに、人口にしても「魏志倭人伝の数字は実態を表していない」と述べられている。心強いばかりである。
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