邪馬台国の謎
邪馬台国のシンポジュームがあったので行ってきた。以下各氏の意見の要旨は次の通り。(但し、私の理解に間違いがあったら、お詫びいたします)
柳田氏の要旨
「イト国」「ナ国」は大きな墳丘を個人が占有し、多量の前漢鏡を副葬するなど突出した存在である。その副葬品を見ると、楽浪郡を経由する他の諸国と違って、漢王朝と直接交渉している。「イト国」「ナ国」の政治権力の壮大さは、北部九州系の青銅器東進によっても証明できる。「後漢書」−「倭伝」から「倭国」出現は二世紀初頭であり、この「倭国」は伊都国王をその首長とするものである。弥生時代に「イト国」「ナ国」以上の遺跡群はどこにも存在しない。北部九州に高地性集落がないのは、「イト国」が東進し瀬戸内、近畿まで戦闘拡大したことによる。柳田氏は、邪馬台国時代とは、卑弥呼の登場する3世紀という従来の考え方に疑問を呈した。つまり、「世々王あり」の「イト国王」が東進し、近畿に政権をたてたと主張された。
奥野氏の要旨
魏志倭人伝には、帯方郡から邪馬台国までの総距離を「万二千余里」とある。中国の読み方に従うと投馬国への日数記事「南至投馬国水行二十日」と、邪馬台国への日数記事「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」の出発点はそれぞれ里数の出発地と同じく、帯方郡である。したがって、邪馬台国までは帯方郡から水行十日・陸行一月であり、投馬国への水行二十日もまた帯方郡からの日数であるという。更に、伊都国と女王国の位置は、「女王国より以北には、とくに一大率をおいて、諸国を検察させている。(一大率は)つねに伊都国において(諸国を)治めている」という記述から、伊都国と女王国の位置関係は、北−南である。つまり、「万二千余里」からの残り1500里を南に行けばいいと主張。邪馬台国は筑後川流域の北岸一帯にあり、吉野ヶ里に比定された。
内倉氏の要旨
「晋書 巻3 武帝紀」 [泰始二年(266年)十一月巳卯、倭人来献方物] から倭国に天子がいたことが分かる。[并円丘方丘於南北郊。二至之祀合於二郊] から冬至夏至には祭祀場で祭りを行っていた。このことから、吉野ヶ里の北内郭の冬至夏至線の一致 及び 吉野ヶ里の南北に祭祀場が見つかっていることから、吉野ヶ里に比定された。また最近の遺跡の年代を決める方法について、弥生以降の遺跡については、土器編年方式を採用している。この方式の現在のやり方は裏づけのない、先入観念に頼ったずさんなものである。土器の実年代を想定する基礎的事実の検証もないがしろにされていると主張された。
石合氏の要旨
基本的には安本美典教授に共感され、「邪馬台国甘木説」に沿ったものであった。よって私も安本教授に共感する一人としてその主張には全く同感であった。特に今回、私が注目したのは「投馬国」の比定地として「豊前・豊後(福岡県行橋市、京都郡)」をあげられたことである。投馬国の「馬」をくずしていくと「与」と似ているというのである。したがって「投馬国」=「投与(とよ)国」であり「投馬国」は、豊前豊後に比定できるとされた。さらに「京都郡」という地名にしても根拠があっての地名ではないかといわれる。邪馬台国は甘木にあったが、女王が壱与(とよ)に変わった時、女王の都するところもまた移動しておかしくないと主張された。
総体的にみて、近畿説の人がいなかったので、バトルがなかった分、平穏無事という感じだった。九州説はみんな微妙に温度差があって相変わらずである。しかし、やはり安本説は説得力がある。再確認したようなものだった。