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随筆のページへ トップページへ FileNo.070304 |
先日、福岡の天神で「ながさきを学ぶ」という1日大学福岡塾が開かれた。最初のシンポジュウムのテーマは「長崎は昔から町全体が学校だった」。オランダ文化が盛んだった時代、長崎で一番偉かったのは「唐通事」や「オランダ通詞」だったという。“文化のオーソリティ”であった彼らは、皆から尊敬を集めていた。つまり、それこそが「長崎は町全体が学校だった」ということだという。長崎には唯一の貿易港として、物だけでなく最先端の知識や文化を唐船や南蛮船が運んできた。学ぶものがやってくる。教えるものがやってくる。シーボルトの鳴滝塾には全国の優秀な人たちが集まった。坂本竜馬は亀山社中を設立し、交易をしながら海軍・航海の技術を習得した。海軍伝習所では勝海舟をはじめ多くの学生が学んだ。福沢諭吉・高杉晋作・西郷隆盛などそうそうたる人たちが長崎で学び、それぞれの故郷で文化を広めていった。文化という血液が、長崎街道という血管を通って、日本全国に広がった。日本の近代化は、当時の“国際都市・長崎”なしでは語れない。
異国情緒豊かな長崎であるが、今、中国の正月(旧正月)の時期に合わせた「ランタンフェスティバル」が、行われている(07/02/18〜03/04)。この期間、市内のいたるところに真っ赤なランタンの飾りつけがなされる。夕方、新地中華街で食事をしたので、中華街横の湊公園会場に行ってみた。林立する巨大なオブジェと鈴なりになったランタンに灯りが入ると実に華やかで、また幻想的でもある。格好の被写体に、ひしめき合う観光客がシャッターを切る。イベントステージでは「中国獅子舞」が演じられようとしていた。演じるのは、仕事をしながら練習を重ねてきた人たちだそうだ。中国獅子舞は一見して、日本の獅子舞のルーツだと分る。だが、日本の獅子舞に比べると、実にカラフルで表情が豊かである。振り返って目をパチクリ、おしりをくねくね、なんて体全体で見せる表情もいい。圧巻は、二人が息をぴったり合わせて演じる綱渡りだ。飛び上がったり、回転したり、この見事な演技は一見の価値がある。
私は30数年前、長崎市に住んでいたことがある。通勤は路面電車だった。赤迫から大浦まで長崎市内を端から端まで乗っていた。今も当時と変わらず元気に走っている。長崎の電車は“元気に”という表現がぴったりだ。路面電車が次々に廃止されていく中、必死に持ちこたえて、今では滑石まで延長の話もあるらしい。厳しかった時期には、全面広告の電車を走らせたり、一般職も管理職も関係なく、みんなが必死で働いたという話も聞いている。電停で待っていると、次々に電車が来るので、時間を気にすることがない。それも料金は一律100円と安い。市民の足としてだけでなく、多くの観光客が利用する。大抵の見どころは電停から4〜5分以内のところにあるので、車で周るより趣きがあっていい。今回大浦から公会堂前の往復に電車を利用した。出来れば最新鋭の3000形リトルダンサーに乗りたいと、だいぶん待ってみたが残念ながら来なかった。乗ったのは201形と300形だったが、それはそれで、なつかしい感じを味わえてよかった。
今年も4月から「長崎さるく」が開催される。去年の「さるく博」は一千万人を超える参加者があって、大成功だったようだ。ボランティアの案内で回る「通さるく」や、歴史や文化を深く学ぶ「学さるく」など多彩なコースが用意されているという。歩いて周れるところに多くの歴史や伝統文化が残る長崎ならではのイベントである。と思っていたら、新聞に“「九州さるく博」開催へ”と出ていた。「まち歩き」をテーマに、九州全体の観光イベントとして、10月〜12月に開催するという。福岡だと「博多地区」、長崎は「丸山地区」など九州一円に用意される。これも“長崎さるく”の成功を受けてのことだ。ポイントはやはり「あるく」ということだろうか。歩くという人間本来のスピードで、文化・伝統に触れることが、単なる観光とは違う刺激を受けるのだろう。“ながさきを学ぶ”のシンポジュウムでは“観光”とは、学んで自分の故郷に持ち帰って役に立て、広めることを言う、とのことだった。本来の意味での観光を長崎でもっともっとしてもらいたい、と締めくくっていた。
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オランダ坂 |
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路面電車 |
平成19年1月14日 西日本新聞 | ||||||||||||||||||||||
出島商館長の日誌発見 | ||||||||||||||||||||||
江戸時代の長崎・出島に駐在したオランダ商館長(カピタン)が将軍に献上品を贈りに出向いた「江戸参府」で、九州通過ルートを海路から陸路(長崎街道)に変更する原因となった17世紀半ばの海難事故を詳述したカピタン業務日誌を、九州大大学院のヴォルフガング・ミヒェル教授(東西文化交流史)が13日までにオランダ・ハーグの国立公文書館で発見した。 この事故とその後のルート変更は、出島のオランダ人が九州の有力者や民衆と交流する契機ともなった。ミヒェル教授は「江戸参府の形態が転換した経緯を示す貴重な資料だ」と話している。 見つかった業務日誌は1658年当時のカピタンが執筆。日誌によると一行は江戸から帰途、4月7日に下関(山口県)に着き、同9日に出航したが強風で帆が破れ福岡県沖の玄界灘(大島付近)で遭難。三日後に上陸し、長崎街道などを経由して出島に帰った。 遭難直後、船を手放したくないカピタンは上陸に難色を示したが、福岡藩主が小舟を提供して一行を上陸させ、鐘崎(福岡県宗像市)から箱崎(福岡市)の宿へ移した。 カピタンは宿で、藩主から酒だる二つや魚の差し入れを受け「大変な名誉で友好の証しだ」と悦びを表現。博多の豪商からは自宅に泊まるよう手紙をもらうが、混乱を恐れた同行の長崎奉行所の検使から制止されていsまい、「彼らは誇大妄想で全く応じる気がない」と不満も書き記している。 遭難を契機に、翌1659年以降の江戸参府は、危険な航海を避け長崎−小倉間で長崎街道をたどることに。オランダ人一行の異国風俗に触れる機会を得た。 福岡藩の古文書には、オランダ人が「帰路当国陸に上り長崎に帰る」と記録されているが、遭難前後の詳しい経緯は不明だった。
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江戸参府
出島オランダ商館長(カピタン)が将軍に貿易を許可してもらったお礼に献上品を贈るため江戸に上った。一行はカピタンら3、4人のオランダ人と、その10倍以上の随行の日本人がいたとされる。1633年に制度化された当初は毎年行われ、貿易額の減少で1790年以降は4年に1回となり、1850年まで続いた。下関から関西までは瀬戸内海を航海、江戸までは陸路(東海道)を通った。 |
吉宗(よっそう) 長崎市浜町8−9 長崎に行ったときは必ずここの“茶碗むし”と“蒸し寿司”を食べる。日見子も私も大好物だ。慶応二年の創業時からの味を守っている。店に入ると、下足札を“パ〜ン”と威勢よく叩いて迎えてくれる。2階に上がって、老舗の雰囲気のなかでいただく。以前は博多駅前にもあったので時々食べに行っていたが、今はなくなっているので、浜町の本店でしか食べられない。 |
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