映画「硫黄島からの手紙」を観て
 
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この映画は「父親たちの星条旗」に続く「硫黄島」をテーマにした2作目である。2作目は、日本の兵士がいかに戦ったかを、日本側の視点で描たものだ。先日、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞を獲得したが、アカデミー賞にも期待したい。クリント・イーストウッド監督は「戦いの勝ち負けを描いた作品ではない。正しいかろうが、間違っていようが、祖国のために犠牲になった彼らの真実を描きたかったんだ」と言う。日本側を描く今回は、当然日本の精神構造を正確に描かなければ意味がない。その点、映画は全編日本語でつくられ、かつ日本人の心情の描き方も納得出来るものだった。映画の舞台「硫黄島」は大東亜戦争末期、マリアナ諸島の戦いに惨敗した日本軍が、本土防衛の最後の拠点として死闘を繰り広げた激戦地である。地形が変わるほどの爆撃、海にひしめく戦艦の群れ、海辺を覆い尽くす敵の大軍を前に、劣悪な環境の中、孤立無援、四面楚歌の日本軍兵士の生きざまがあまりにつらい。

栗林中将(渡辺謙)は、着任と同時に硫黄島を歩いて見廻る。与えられた使命を全うする作戦を立てるためである。その作戦は、それまで日本軍が取ってきたものとは大きく違うものだった。圧倒的な戦力の差を踏まえて、地下要塞としてのトンネルを掘り、そこから徹底抗戦するというものだ。更に「敢闘の誓い」では、「最後の一人となるとも、ゲリラに依って敵を悩まさん」と、いさぎよしとした“バンザイ突撃”を禁止する。「生きて再び祖国の地をふめることなきものと覚悟せよ」。日本軍は、凄惨な持久戦へ突入していく。そして最後の時を迎え、栗林は大本営に訣別電報を送る。「・・・将兵の敢闘は、真に鬼神を哭(なか)しむるものあり・・・徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは・・・」。自分が命じた苛酷な作戦についてきてくれた将兵を称えるものだった。同時に送った辞世の句は、自分を含む22千将兵の無念を詠んだものだろうか。「国の為重きつとめを果たし得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき」。死を前に、心の奥から搾り出したこのメッセージを、大本営は改ざんして発表した。

考えてみれば、大東亜戦争は、アメリカに翻弄(ほんろう)された戦いであった。日本側からの開戦を仕向けられ、確たる勝算もないまま真珠湾攻撃に突入する。原子爆弾が出来あがると、広島と長崎を実験場にし、ロシアとの裏取引で「日ソ不可侵条約」はホゴにされた。東京裁判は戦勝国による一方的な裁判であった。しかし、戦後の日本はそのアメリカに大いに学び、成長していった。これこそ日本人が古来から培ってきた、優れた特質である。そしてアメリカの安全保障のもと、60年もの間、一人の戦死者もない平和な国となった。とは言え、今の日本の周囲を見回せば、北朝鮮の核、中国の軍事力、国際テロ、といった脅威に囲まれている。そんな中にあって、現在の自衛隊は警察と大差がない状態だ。安全を保つには、軍事バランスが重要である。防衛省の発足を機に集団的自衛権を認め、真に米軍と自衛軍一体となって国防にあたらなければならない。しかし、ここでもうひとつ大切なことは、太平洋戦争に学び、シビリアンコントロールを堅持することである。

西郷(二宮和也)が洞窟で手紙を書きながら、こんなことを言う。「花子、この手紙は届かないだろう。しかし、書いているだけでホッとするんだ」。栗林は、最後の総攻撃に際して、洞窟にあるものの処分を西郷に命じる。しかし西郷は手紙を焼き捨てず、洞窟に埋める。栗林が家族に宛てた手紙を見るに、およそ必死の戦場にいるとは思えない心優しい内容である。2万余の将兵の思いもまた同じである。西郷は、死を覚悟した兵士たちが、心の支えであった愛する人への思いを、焼き捨てるには忍びなかったのだろう。安西篤子さんの「悲惨と希望の日々」(季刊誌「今日から悠々」2006年夏号)にこんなことが書かれていた。「毎日、毎夜、空襲に脅かされながら過ごす情けない青春だったが、・・・いつしか戦争も終わり、平和が来るに違いない。青春とは、希望であろう。身も心も健やかで生命力に満ち、未来に期待する。周囲の状況がどれほどひどいものであろうと、心の内からかがやき出でるものがある」。硫黄島の兵士たちが死を以って守ったものは、まさにこれであったろう。

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STORY
監督:クリント・イーストウッド
出演:渡辺 謙・二宮 和也
マリアナ諸島の戦いで玉砕した日本軍は、硫黄島を本土防衛最後の拠点として栗林中将を送り込む。硫黄島2万の将兵の任務は、一日でも長く戦い、本土の家族たちを守ることであった。着任してすぐ、島を歩いて回った中将は、それまでの日本軍の戦略では考えられない作戦を指示する。それは島中にトンネルを掘り、島を地下要塞化して敵を迎え撃つというものだった。1945年2月19日、圧倒的な軍備をもって米軍は上陸を開始する。目の前には海を埋めつくす戦艦の群れ。勝利も帰還もない、過酷な戦いに突入していく。



平成19年(2007年)2月27日 西日本新聞
アカデミー賞・・・・・ディパーテッド4部門を受賞
ロサンゼルス25日共同第79回米アカデミー賞の発表・授賞式は25日夜(日本時間26日午後)、作品賞に「ディパーテッド」(マーティン・スコセッシ監督)を選んで閉幕した。「硫黄島からの手紙」は作品賞を逃したが、音響編集賞を受賞した。「ディパーテッド」は、作品賞を含め監督賞など今年最多の計4部門を受賞。スコセッシ監督のアカデミー賞受賞は初めて。主演男優賞は「ラストキング・オブ・スコットランド」のフォレスト・ウィテカーさん、主演女優賞は「クィーン」のヘレン・ミレンさんだった。候補入りした助演女優賞の菊池凛子さん(26)、メーキャップ賞の辻一弘さん(35)は、いずれも賞を逃した。



「拝啓 父上様」というテレビドラマが放映中である。主人公・一平を演じるのは「硫黄島からの手紙」の二宮和也。1月11日放映のなかでこんなシーンがあった。
鳥取から出てきたばかりの、ちょっとやんちゃな板前見習いが、主人公の一平と一緒に住むことになる。少年院にお世話になったこともあるこの新人板前が、寝る前に必ず手紙を書いている。ところが、筆はなかな進まない。

板前見習い 「毎日手紙を書け、出さなくていいから毎日書けって親父に言われた。別に出さなくていい、お前の気持ちが休まるからって。ちょっといかしていると思わない」
一平 「神楽坂上ったところに相馬屋っていう有名な文房具の店があってな。そこで原稿用紙買って書くとスラスラ文章が書けるって言うぞ。夏目漱石とか・・・。筆の遅いヤツはな、坂下の山田屋の用紙がいいらしい。井上久なんていう人はそこらしいと言ってたよ」
板前見習い 「いい話聞いた」
一平 「でも、いい親父だな。出さなくていいから書けって言うのが・・・。どんな親父だ」
インターネットで調べてみたら、神楽坂に相馬屋も山田屋もあった。今度東京に行くことがあったら、神楽坂ってどんなところか見てみたい。



平成19年(2007年)6月19日 西日本新聞
硫黄島(いおうとう)に変更・・・・「いおうじま」の呼称消える
 小笠原諸島・硫黄島(東京都小笠原村)の呼称を現地の通称に合わせ、「いおうじま」から「いおうとう」へ変更することを18日、国土地理院と海上保安庁海洋情報部が協議し、決めた。
 地元では戦前から「いおうとう」と呼ばれていることから、小笠原村が昨年三月、国土地理院に変更を要望した。国土地理院は9月に刊行予定の2万5千分の1地形図で変更するほか、海上保安庁情報部も海図を近く変更する。
 硫黄島は太平洋戦争末期、米軍上陸し激戦の末、旧日本軍約2万人が戦死した。戦後、米国が占領し、1968年に返還された。明治時代から一部で「いおうじま」と呼ばれていたが、戦中から米軍などがこう呼んだことから、関係省庁などに定着したとの説が強い。
 「小笠原村在住旧硫黄島島民の会」の岡本会長は、呼称変更について「終戦後、ふるさとの名前が変わって呼ばれるのに違和感を感じていた。ようやく元に戻ってうれしい」と喜んだ。一方、旧日本軍兵の遺族らでつくる硫黄島協会の遠藤会長は「海図には明治の初めからイオウジマと記されている。歴史を尊重してほしい」と反対している。