母の二十世紀 随筆のページへ

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FileNo.040416

母は、明治37年生まれの99才を一期として永眠致しました。西暦で言えば1904年生まれ、今年が2004年ですからまさに100年、激動の一世紀を生き抜いたということになります。100才にあと2ヶ月でした。自分の歯で食事をし、読書が大好きで大量の本を読破し、元気でかくしゃくとしておりましたが、昨年8月大腿骨骨折により日常生活に支障を来たすこととなりました。年齢が年齢でリハビリも思うにまかせず、逝ってしまう原因となった事は本当に残念な事でした。天寿を全うしたと言うには、あまりに厳しい最後でありました。しかし気丈な母は、最後の最後まで気力は衰えず、その生き方には微塵も変わる所はありませんでした。母の生き方を例えて言うなら「あえて風を真っ向から受け、大地に仁王立ちになり、戦い続けることをエネルギーとして生きてきた人生」であったと言えましょう。

母はY県の出身で、14歳までは出生地で7人兄弟と一緒に育ちました。幼少期は下の弟や妹の子守をして過ごし、尋常小学校では成績は上位にあったようです。家の商売の失敗で生活は厳しく、15歳の1月15日 たった一人で東京に出て行きます。恐らく不退転の決意だったでしょう。最初に奉公したところでは「行儀・作法」をしっかり身につけたようです。次の奉公先は、当時の軍部高官の家でした。そこのお嬢様を献身的にお世話したことが認められ、奥様にたいそう気に入られ、当時ではめずらしい高等教育機関の学長宅に学僕として働くことになります。昼は勉学に励み、下校後は奉公という生活を送ります。当時を振り返って、同級生と同じだけの勉強時間があったら、誰にも負けない自信があったと、後々まで言っておりました。母の生き方は、幼少から社会へ出るまでに経験した厳しさに培われたものでありましょう。

社会に出て、建設会社(東京)の経理で働きます。その後朝鮮にわたり同じ建設会社の京城支店の経理や専門学校の経理事務などをしていました。その頃のエピソードとして、「“自分は他の人の2倍仕事をしている。給料も2倍くれ”と会社に直談判した」などと話していました。こんなところにも、母の激しさが出ています。そのころやはり朝鮮に渡っていた父と知り合い結婚します。結婚後は、一緒に商売に励みます。母は営業、父は技術という分担で、当時の軍人などへの営業もうまくいっていたようで結構順調なようでした。昭和15年、大戦の直前父の郷里に帰郷します。その後父は徴兵で出征しますが、終戦で無事帰還。また一緒に商売に励みます。私の小さいころ、近くの大きな神社で年一回行われる大祭や、近隣のS市の初市などにも出店していました。荷車に商品をいっぱい積み込んで、一緒について行ったことを思い出します。私の楽しい思い出の一つです。

母の生きた時代は、20世紀とほぼ一致します。明治・大正・昭和・戦中・戦後、どの時点においても、それぞれの世相を感じさせる部分と関わりあいながら生きてきたように思います。それも、自ら積極果敢に攻めて行った人生だからこそ、関わりあったのではないでしょうか。貧しかった明治、自分の人生の基礎をつくった大正、自らの人生を走りはじめた昭和初期、父の出征で守り通した戦中、戦後は日本の復興とシンクロしながら生きてきました。実に象徴的であると、改めて感じる次第です。ここで明治がまた一つ遠くなりました。残された者は否応なく「無常」という非情な現実を受け入れざるをえません。子供は「死の瞬間に、この世で理解できなかったことの全てが分かるのではないか」と言っていましたが、果たしてどうだったのでしょうか。母は白無垢に見立てた衣装に身を包んで、父の元へ旅立ちました。

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