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FileNo.080117

先日、大濠公園能楽堂で「笑う角には福来たる」と題して新春公演が催された。内容は藤間伊勢登茂さんによる日本舞踊「東都獅子(あずまじし)」、野村万禄さんによる狂言「盆山(ぼんさん)」、立川笑志さんによる落語は、今年の干支にちなんで「ねずみ」だった。福岡県や福岡市などが後援しているだけあって、いずれも福岡に縁のある人ばかりである。日本舞踊は新春を飾るにふさわしく、着物と帯が艶やかで、さながら博多人形が舞っているかのようだった。落語の立川笑志さんは、大宰府天満宮近くの二日市出身で、立川談志を師匠に、今度めでたく真打に昇進された。名前も“立川生志”に変わるそうだ。6月にはアクロス福岡で、真打昇進の披露公演があり、談志師匠や志の輔さんも来るという。笑志さんは自分でも言っていたが、元横綱・若乃花にそっくりである。お腹に関しては、横から見ると今のお兄ちゃんを凌駕しているかもしれない。もちろん落語の方は、見事な真打の高座を聞かせてくれた。

野村万禄さん(*)による狂言「盆山」も会場を大いに沸かせた。今回の演目の中でも、一番観たかったのがこの狂言だ。私は、時々狂言を、この大濠公園能楽堂に観に行く。狂言は、実に分りやすい。太郎冠者(たろうかじゃ)などの登場人物を観ていると、室町時代にも、我々と全く同じ人たちが生きていたのがよく分かる。大蔵流の狂言師・山本東次郎さんはこう言う。「狂言とは、愚かしい人間の心理を描いた“心理劇”である。しかも、それは万人に共通する愚かしさで、愚かしい人間を描くのではなく、皆が持っている人間の中にある愚かしさを現している」。今回の「盆山」に出てくる二人もまたそうである。たくさんの「盆山」を持っているのに、どうしてもくれないので男が盗みにくる。それに気づいた持ち主は、誰が隠れているか分っていて、意地悪をする。犬だと言うと、隠れている男は仕方なく「ビョー、ビョー」と鳴きまねをする。終いには鳴くはずもない「鯛」だと言う。男は困って「タイ、タイ、タイ」と鳴きながら逃げ、持ち主は「やるまいぞ、やるまいぞ」と追い込みで終わる。

伝統文化と言えば “能”“文楽”に続き「世界無形遺産」に“歌舞伎”も登録された。歌舞伎といえば年末の特番で、中村勘三郎さんに一年間密着取材した番組が放映されていた。これはなかなか興味深く、じっくり観た。勘三郎さんは、古典をしっかり受け継ぐと同時に、常識を破る新作の歌舞伎にも挑戦し、実にエネルギッシュである。ニューヨーク公演では、3分の1以上を英語のセリフにするという大胆な試みだったが、結果は、観客の鳴り止まないスタンディングオベーションだった。世界無形遺産は、無形の文化を人類共通の遺産としてとらえている。まさに、今回のニューヨーク公演のように、本場の厳しい目を持つニューヨークの人々に理解され、受け入れられることで、歌舞伎が世界無形遺産になっていく。日本がほこる文化を、世界中の人々が共有するのである。もちろん、伝統芸能として古典をしっかり守り、大事にしているというベースがなければ成り立たない。勘三郎さんにして、今も歌舞伎界の重鎮に教えを乞い、真髄の探求に終わりはない。その時の真摯な態度、真剣な眼差しは、まるで新人であるかのようだった。

狂言師・野村萬斎さんもまたしかりである。きちんとした舞台では古典をしっかり守り、別の舞台では電光掲示板を使うなど、常に新しいものに挑戦している。受け継ぐものの未来を見据えれば「不易流行」こそ大事である。古典を忠実に守るだけでは時代に取り残されてしまう。古典を忠実に継承できなければ消え去るのみである。親から子へ、子から孫へと受け継がれていく古典。それが何百年もの間、連綿と続いて今日がある。親の芸を受け継ぐ為に、小さい頃から、血のにじむような稽古がある。勘三郎さんも先代から受け継ぎ、勘太郎、七之助が父の背中を追う。そこには日本の“道”がある。それは伝統芸能だけではない。茶道、武道いかなるものも、日本の“道”は、厳しい稽古から会得する“心”であるとも言える。能楽協会とすったもんだしている人もいるようだが、これでは伝統は守れない。相撲にしても、品格を問われる位置にありながら“道”が理解できないようなら、相撲を取る資格はない。それぞれの“道”を崇高な域まで極めた達人を人間国宝と呼ぶ。すなわち伝統文化とは“心”である。

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(*)野村万禄・・・故・六世野村万蔵(人間国宝)を祖父に持つ。現在、初世野村萬(人間国宝)に師事。2000年二世野村万禄を襲名、野村万蔵家別家を興す。1997年から福岡に居を移し、九州での狂言普及を行うとともに、ピアノや演劇など他ジャンルとの共演など幅広く活躍。(新春公演プログラム記載のプロフィールより)

平成20年(2008年)3月9日 西日本新聞 別刷り「京晴れ」より
大蔵流狂言師 茂山正邦さん
  ・・・・心情を感じ、察して分かり合う。狂言のおかしみは人の温もり。

平安時代に<猿楽>と呼ばれた雑芸から発展してきた能楽は、能と狂言に分化して発展し、陰と緊張の能、陽と緩和の狂言として常に表裏一体の芸能であった。能の演目と狂言のそれは関連したものを演じるというのが能楽の正式プログラムで、幽玄と滑稽(こっけい)という陰陽の対比を重視した日本の伝統芸能である。「滑稽を受け持つ狂言は夫婦や主従、僧や動物などが登場して、けんかしたりだましたりするのですが、最後は仲直りしたり、悪者や権力者が謝ってめでたく収まっていくという筋書き。古典とはいえ、権力への批判、弱者への共感といったことがテーマですから、誰もが思い当たるから親しみがわき、楽しいのですね。しかも言葉の底に流れるのはユーモア。暖かい人間味です。言葉と動きと最小限の小物だけで舞台を創り上げるので演者が演じる以上に観客が<感じ取る演劇>でもあります。想像を巡らせ、察し、おもんばかるという日本的な心情をベースとしていますから、お客様も想像力を働かせながら観てくださる。これが狂言の面白みや妙味ではないでしょうか。言葉は時代とともに変化していいと思いますし、狂言のせりふも少しずつ変化しています。でも、どんなに変化しても、言葉は微妙な心情を伝えるものであってほしい」。