潤古屋敷遺跡

(うるう ふるやしき いせき)
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File No.111205


←←現地説明会の様子

昨日(12月4日)、「潤古屋敷遺跡」(福岡県糸島市潤)の発掘調査の成果について、現地説明会が行われた。この遺跡には隣り合わせで、北側に「潤大山遺跡」、南側に「潤番田遺跡」がある。これらの遺跡はだいたい13世紀〜15世紀(鎌倉時代−戦国時代)のものである。また、東側には弥生時代・伊都国女王の装身具工房であった「潤地頭給遺跡」が隣接している。この潤地頭給遺跡からは以前、輸送用の大型船の部材が出土したことがある。糸島地域は弥生時代から高度な造船技術をもっていた。北側の遺跡「潤大山遺跡」からは、潤古屋敷遺跡から港に続くとみられる舗装道路が見つかっている。これは中国との貿易、国内各地との交易などが盛んに行われていたことを思わせる。この地は弥生から1000年の時を超えても、外国との政治・交易の要衝であった。鎌倉時代、文永・弘安の役と2回に渡り元軍がこの地を攻めてきたことでも分かるように、それは地勢的なものからくる必然である。

さて今回、説明会のあった「潤古屋敷遺跡」の大溝であるが、そのコーナー部分が出土したことによって溝の全体像が分かってきた。大溝は幅6〜8m、深さ2mで、一辺が約100mの方形だった。その内側には現在の地名にも残っている「潤(うるう)」氏の屋敷があったと思われる。当時糸島は「怡土庄(いとのしょう)」という荘園があり潤氏は、それを管理する地頭であった。隣接する「地頭給」という地名もそれを裏付けている。潤氏の名前は1305年の古文書に出てくる。その古文書というのは、怡土庄を支配していた大友氏(大分・大友宗麟の祖先)が、潤氏らが年貢を払わないと幕府に訴えを起こした判決文書である。元寇で活躍した大友氏は、軍功により鎌倉幕府から怡土庄を与えられた。軍功によって怡土庄を領地とした訳だから、それ相応の武力は持っていたと思われる。その武力を以ってしても、年貢を払わなかったというところに歴史の面白さが垣間見える。

潤古屋敷遺跡や潤番田遺跡からは、中国製の陶磁器などが多く出土している。輸入陶磁器は、当時としてはかなり貴重品だったと思われる。出土品の中には、すし屋にある大きな湯呑ようなものに象嵌(ぞうがん)をほどこした、全国でも5例しか出ていないようなものが出土している。南側の番田遺跡からも全国で11例しかないという「陶枕(とうちん)」が出土している。福岡県内では大宰府市でしか見つかっていないというこの陶枕は、有力者しか持たない貴重なものである。かなりの財力があったことを推測させる。市教委は、在地の地頭が中国と私貿易を行っていた可能性もあるとみている。一方、一辺100mの大濠に囲まれた屋敷であるが、発掘では外側に更に何本かの溝が検出され、大溝の内側には柵列と思われる穴も確認されている。さらに、溝は防御に有効な、非常に滑りやすい赤土で作られており、軍事的な構えも伺わせる。ことわざにある「泣く子と地頭には勝てぬ」という地頭の力が見えてくる。

大友氏が怡土庄を領地にする前は、原田種直氏がこの地を治めていた。原田氏は、平家方として戦ったため、怡土庄は関東御領になった。元寇の後幕府は、怡土庄を「香椎社領」とした。元寇のときの神風を起こし蒙古軍を撃退した香椎宮の功績に与えられたのである。この後、香椎社と大友氏との間でも、一悶着あっている。こうした原田氏、香椎社などとの経緯と、財力を持ち、軍事力への構えもあった地頭の状況を踏まえれば、大友氏に"はい、そうですか"と従順に従わなかったのも分かる気がする。幕府の判決が下った後、本当にそれが支払われたかどうかも確認できないという。これは、元寇後の鎌倉幕府自体、力が次第に衰退していったこともあるだろう。一方で、地頭の台頭は、怡土庄の地頭・潤氏の名前が、700年後の今、地名として残っているところにも伺える。潤古屋敷遺跡とその周辺の地域の発掘は、まだまだ続いている。また新しい発掘によって、また新しい事実が明らかになっていくことを期待したい。

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今回見つかった大溝のコーナー

潤古屋敷・想像図

2011/12/22 古代末期における「筑前国・怡土庄」
「続荘園制と武家社会」(昭和53年、吉川弘文堂発行)の中で、正木喜三郎氏が書かれている中から抜粋してみた。
『怡土庄の初見史料は法金剛院落慶供養の行われた翌年の天承元年(1131)2月14日付の筑前国司下文案である。なお付言すれば、これより25年前の康和頃では、怡土庄の地はまだ国領と考えられるのであって、怡土庄立券荘号はこの25年間に行われたものと考えられる。』
郡名 荘名 史料初見
年月日
西暦 出典 領家名 田数 備考
怡土・志麻 怡土 天承元年
2月14日
1131 東大寺文書
4の32
法金剛院 1470丁7反 天文2年11月8日
法金剛院目録
さらに、怡土・志麻地域の地理的特質については次のように書かれている。
この地域は対外交渉の関門として重要な位置を占める。
この地域の開発は古く、各地に見られる縄文・弥生・古墳の遺跡・条理制遺構と名の分布はほぼ一致し、さらに倭人伝に誌す伊都国の状況がこれを裏付けよう。
元来、怡土・志麻は、太宰府、博多に隣接し、対外的にも軍事的にもその門戸として枢要の地を占めていた。また志麻郡に於いては貨幣経済が早くから浸透していた。
この地は、古くから、太宰府との関連も深く、吉備真備・佐伯今毛人らの怡土城造営、船楫修理の主船司が怡土城麓の周船寺に設置され船戸が点定されていた。
怡土庄の地理的特色として貿易港今津をもつことを挙げねばなるまい。怡土庄の船津である今津は、また日宋貿易の拠点としても知られる。十二世紀頃の貿易は寺社権門による私的貿易の様相を呈しており・・・

2011・12・08 オリンパスの損失隠し問題・・・「サラリーマン根性の集大成」
オリンパスが、バブル期の投資失敗などの損失1300億円を隠し、粉飾決算をしていた問題で、第三者委員会が調査報告書を発表した。報告書によれば、その原因は、トップ主導で監視機能が働かなかったこととし、次のように厳しく断罪した。
経営中心部分が腐っており、悪い意味でのサラリーマン根性の集大成。
歴代社長のコンプライアンス意識に問題があった。
イエスマンが多く、取締役会は形骸化。
監査法人も、責務を十分果たすことができなかった。
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