福岡城・下の橋大手門の復元 随筆のページへ

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FileNo.070401

福岡城は今年築城400年目を迎える。この福岡城に関して今論争が起きている。それは天守閣があったか、なかったかではない。2000年に火災で焼損した「下の橋大手門」の復元に関してである。現在、福岡市教委によって復元工事が進められている。「下の橋大手門」の前には、完成予想図の立て札が立ち、立ち入り出来ないようになっている。5月棟上げで、完成目標は築城400年祭のようだ。復元にあたっては、同一規格の「上の橋大手門」の古写真の解析などが根拠になっている。ところが「市教委の設計は史実と異なる」と異論を唱えたのが、九大の服部英雄教授だ。先日、九大・六本松校舎でその問題点に関する服部教授のシンポジュウムが行われた。「今ならまだ設計変更も可能である。議論を尽くして史実に忠実な復元を・・・」と訴える。一方、福岡市教委の方は、「充分時間をかけて検討し根拠もある」と当初案どおりで進める意向である。歩み寄りをみせない論争に、文化庁も「議論を尽くすように」と要請したという。

教授が指摘する問題点は「表窓の構造」「表窓の位置」「裏窓の有無」「戸前の位置」などである。「表窓の構造」については、市教委の「漆喰の引き窓」に対し、服部教授は「4間連続した突き上げ戸」であると主張する。根拠となるのは「上の橋大手門」の古写真の判断だが、それに加え、攻め寄せる敵を防ぐ大手門の機能なども根拠としている。「引き窓」は、皆無ではないが例外的であり、半分の窓では攻撃人員も半減する。その点「突き上げ戸」は開放性、攻撃性に優れており、緊急事態にあっては、正面の窓は全開の必要があるとの考えだ。しかし市教委側も「このままでは悪者になる」と反論する。問題は市教委も同じ写真を見て、違う判断をしていることだ。問題の古写真は、出兵の記念写真として撮影されたものなど数枚あるが、いずれも質が悪く解析が困難である。服部教授の意見は、写真の解析に加え、広い視野からの整合性を追究した点に説得力を感じる。出来れば市教委が判断した根拠も詳しく知りたい。

シンポジュウムで「全国で行われている史跡整備」について講演された千田嘉博助教授(奈良大学)は「必ずしも史・資料は完全でなく、研究にもとづく推測・類例から推測する部分が残る。整備・復元に当たって、いくつかの可能性(別の解釈)が残ることは珍しくない」という。まさに今回の論争である。服部教授は「祈念櫓では復元の作業途中で矛盾が明らかになったにもかかわらず、そのまま移築を続行。直後に古写真が見つかって誤りが顕在化した。史実に忠実な復元でなければ、文化財保護法第3条にも文化財保護思想にも反する」と訴える。だが、今回は“判断の違い”の論争であるから、市教委案を覆すまでに至ってない。市教委も「福岡市の復元案が100%とは思っていない。史実を追及したいというのは同じ。“違う説”は、完成時に市民に分るようにし、整備報告書にも表記する」との考えだ。さて、復元された「下の橋大手門」がどのような形で我々の前に姿を現すのか、また市民にも判断が出来得るだけの資料がどういう形で開示されるのか、楽しみである。

福岡城と言えば、天守閣の問題に触れないわけにはいかない。さて、あったのか、なかったのか。1646年の絵図には天守閣が描かれていない。ところが、細川忠利公の書状(元和元年)には「ふく岡の天主、又家迄もくづし申候・・・」とある。このことなどから当初、天主閣はあったが後に崩されたという説が有力なようだ。家康も一目置く、戦国時代きっての軍師・官兵衛の城である。幕府に対しは、脳ある鷹が爪を隠していたとしても、築城にあたっては、相応の堅固な城を築いたはずだ。だが、長政公の時代になって、幕府に対し野心のないことを見せるため、天守閣を崩したということだろう。築城400年の節目にあたって復元を望む声も多い。しかし、シンポジュウムで、こんな発言があった。「原城の石垣が幕府によって崩されたのなら、それもまた歴史である」。納得である。この考えを踏まえれば、仮に当時の設計図が出てきたとしても復元はしない方がいい。「なぜ、復元しないのか」と問われたら、「福岡は、歴史を大切にしている」(補足説明)と言うほうがはるかに誇らしい。

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補足説明)初代藩主・長政公が、父・如水とともに心血を注いで築いた福岡城。その天守閣を崩すという決断は、まさに苦渋に満ちたものであったろう。初代藩主のその重い決断を、我々は大切にしたいものだ。間違っても、コンクリートで固めたような天守閣を飾ってはなるまい。

史跡 福岡城跡
福岡城は、福岡藩初代藩主 黒田長政によって、慶長6年(1601年)から7年をかけて築かれました。
 前年に豊前国(大分県)中津から筑前に入国した当初は、小早川隆景の居城だった名島城に入りましたが、治政の都合からここ福崎の丘陵に新しい城を築く適地として選ばれました。城の名前は、黒田家再興の故地である備前国(岡山県)邑久郡福岡にちなみ、福岡と名付けられました。
 この城は、東側を那珂川で画し備前堀、中堀を構え、西側の干潟地を深く掘って大堀とし、正面北側は内堀を構えて海側に城下町を配し、搦手(からめて)である南側は赤坂山を掘り切って四周を水掘に囲まれた平山城としています。城域は土塁や石垣によって三ノ丸、二ノ丸、本丸に区画され、石垣の上には47棟の櫓が設けられるなど、重厚な城構えとなっています。総面積は24万坪(約80万平方メートル)で、全国でも有数の規模を誇っています。
 昭和32年8月29日に国史跡の指定を受けました。城内には重要文化財の多門櫓、市指定 名島門、県指定の母里太衛(もりたへい)邸長屋門、大手門、潮見櫓、祈念櫓が復元整備されています。また、古代の迎賓館である鴻臚館跡も一部整備されています。
平成8年3月 福岡市教育委員会

2007/09/28 下の橋大手門 上棟式の様子

復元図

上棟式

式典後“もちまき”
2008/11/22 完成した「下の橋大手門」


2007・12・22撮影

史跡 福岡城跡・堀石垣

平和台球場・外壁撤去工事
この堀石垣は、裁判所前(読売新聞・西部本社前)付近にある。一見、地下鉄の入口風で、目立たないので知らないと、つい通り過ぎてしまう。毎週土曜日の午前10時から午後5時まで公開されており、説明をしてくれる人が待機している。「石垣のこの白い部分は、赤土・粘土・細かくしたわらなどを塩でもんで、ドロドロにしたものを埋め込んだものです」などなど、いろいろ丁寧に、熱心に説明してくれる。 かつての西鉄ライオンズのホームグラウンド「平和台野球場」の外壁の撤去工事(H19/11/27〜H20/03/10)が始まった。10年ほど前、この外壁を除いて解体されていた。福岡沖地震でこの外壁もまた倒壊の危険が発生したことから解体することになったという。これで平和台球場の名残りすべてがなくなる。時を同じくして、稲尾和久氏が鬼籍に入られたことも、まことに残念なことだ。福岡市美術館の「行動展」を観に行く途中で、写真を撮ってきた。