TOP
2022年05月へ 2022年03月へ
  雑 感 (2022年04月) 雑感(目次)へ

随筆のページへ

トップページへ

「二十四の瞳」〜川本松江の人生 反撃能力の保有
「二十四の瞳」の人生 改正少年法

[2022/04/28]
「二十四の瞳」〜川本松江の人生

「二十四の瞳」は、どんな時代背景で描かれたのだろうか。作者の壺井栄さんは、1899〜1967年を生きている。彼女が15才のとき、日本は第1次世界大戦へ参戦する。それから第二次世界大戦の終戦を迎えるまでの30年間は、まさに青春から人生の充実期に至る貴重な時期だった。子どもたちが入学し、大石先生が初めて教壇に立った昭和3年頃は、慢性的な不況が続いていた。更にこの後、関東大震災からの震災不況、そして世界は、アメリカ・ウォール街の「暗黒の木曜日」に始まる世界恐慌、昭和恐慌へと進んでいく。子どもたちが小学校を卒業する昭和9年ころは、満州事変から五・一五事件、二・二六事件があり、日中戦争がはじまる。「二十四の瞳」は、そんな時代背景を生きた人たちを描いている。それは作者・壺井栄さんが、目の当たりにしてきた時代である。

 

“川本松江”もそんな時代に翻弄された人生である。壺井栄さんは、どういう人生を彼女に歩ませようとしたのか。彼女の家族は、両親と松江、その下に弟と妹の5人家族である。父は大工だが、『世の中の不況は父の仕事にもたたって、大工の父が、仕事のない日は、草とりの日ようまでいっているほどだから・・・』。松江の家は、食べることに精いっぱいの暮らしだった。そんな中、さらに月足らずの妹が生まれる。だが母親は、このお産で亡くなり、その後赤ん坊も亡くなる。数カ月後、後添いが来ると、松江は家を出される。『マッちゃんの家、おっさんと男の子残ったん』。これからすると、松江だけでなく妹も家を出されたと思われる。高松の小料理屋で偶然大石先生と会った松江。『大坂に行ったんじゃなかったのマッちやん。ずっとここにいたの?』。おそらく大坂の親類に行ったのは妹で、松江は高松の小料理屋に奉公に出されたのではないだろうか。

 

戦後、早苗の尽力があって、大石先生が、再び岬の分教場に努めることになる。歓迎会には松江も駆けつける。『どことなくいきなつくりの着物をきた女だった』。松江は見違えるようにきれいになっていた。高松の小料理屋の松江は、幼いながら日本髪に抜きえり、黒い目と長いまつ毛、母親似の美人の顔立ちだったと思われる。『私はもう先生の前に出られるような人間ではありませんけど・・・』。『かわいそうだった松江、そのかわいそうさをくぐってきたことを自分の恥のように卑下しているような松江・・・』。岬の同級生で唯一、交流があったのがマスノであるが、マスノは、自分と松江は海千山千だと言っている。マスノは、歌手になる夢を追って、何度も家出をしたが、結局連れ戻され、家の跡継ぎとして料理屋を経営、家出先で知り合った年上の男性と結婚している。松江は、マスノと仕事でも、生き方でも同じ匂いを感じていたのだろう。

 

大石先生が岬の分教場の教壇に立った日、新入生の中に、松江にそっくりの黒い目を輝かせている川本千里という女の子がいた。『お母さん。大坂におるん。洋服おくってくれたん』。物語の中では、千里誕生のいきさつはまったく語られていない。昭和21年に小学校入学ということであれば、昭和15年ごろの生まれである。世の中は第2次世界大戦が始まり、その翌年には、真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入する。松江は、粋な美人であったから、割烹などで働いていれば、人気があったに違いない。将来を約束した馴染みの客がいてもおかしくない。千里は、そんな人との間に生まれたのだろう。しかし、世情が悪すぎた。国家総動員法、国民徴用令が出された戦時下である。恐らく千里の父親も出征したであろう。松江は生きていくために、千里を実家に預けたのである。厳しい世の中を、海千山千で力強く生きた松江の人生はどこにも恥じることはない。作者の壷井栄さんは、激動の時代を力強く生きる女性を川本松江で表現したのではないだろうか。
この頁のトップへ

[2022/04/26]
反撃能力の保有

自民党安全保障調査会は、自衛目的で相手領域内のミサイル発射を阻止する能力「敵基地攻撃能力」の名称を「反撃能力」に変更することを提言した。同時に「指揮統制機能等」を攻撃目標に追加する。中国は日本を射程に収める弾道ミサイルを多数保有している。米国防省は、2030年までに現在の5倍の1000発の核弾頭を持つだろうと予測する。北朝鮮は「新型核戦術誘導兵器」の発射実験に成功した。飛距離や高度は従来型より遥かに上回る。「戦術核」運用の一層の強化を目指している。ロシアは、ウクライナで航空機から発射する極超音速ミサイルを、実戦で初めて使用した。ミサイル発射は航空機からだけではない、潜水艦からあるいは、トンネルから出てきた列車からと多様化している。ミサイル発射技術は確実に進んでいる。「反撃能力」に相手ミサイル基地に限定せず新たな機能を加えたのも当然と言える。

 

不幸なことに、日本の周りを見渡せば、東シナ海に中国、日本海に北朝鮮、オホーツク海にロシアと、民主主義や自由といった価値観を全く共有しない国が存在している。中国は「勝者こそ正義だ」とし、ロシアは「力こそ正義だ」とする覇権国家である。ロシアのウクライナ侵攻は、ただプーチンの「ウクライナはロシアの一部」という考えで始めた「プーチン戦争」である。法的根拠も国際秩序なども全く無視し、ブチャでは多くの市民を虐殺、マウリポリでは子供病院を爆撃、無差別攻撃で市民を殺りくする戦争犯罪を続けている。習近平は4期目の権力の座に就きたいため「台湾は中国の一部」だと言い、台湾を政治的か軍事的に統一しようとしている。相対的に軍事力の低下しているアメリカを見ながら、着々と軍事力を蓄え、習近平の個人的な野望による「習近平戦争」が始まる。我々は、こんな国々と対峙している。

 

さて先日の左翼・西日本新聞にこんな記事が掲載されていた。『現実をまったく見ていないのか「憲法9条改正で国を守ろう」と唱える人がいる』。更に『ウクライナで死ぬロシア兵も、ロシアが9条を持たないがゆえに出た犠牲者である』と書いていた。つまり、ロシアに憲法9条があれば、プーチンはウクライナ侵攻を起こさなかったというのだ。現実を見ていないのはどっちだ。ロシアのウクライナ侵攻は、国連憲章に違反する重大な不法行為である。その国連の中心にあるロシアが戦争を起こし侵略している。しかし安保理は非難決議すら採択出来ていない。国連は大国の横暴に全く無力なのだ。こういう国の拒否権で、国連は破たんし、安保理は全く機能しない。ゼレンスキー大統領は「国連安全保障理事会が保証する安全はどこにあるのか。どこにもない」と演説した。ところが左翼新聞によれば、憲法9条さえあれば世界は平和らしい。

 

安全保障は、最悪の事態に備えることが政治の責任である。しっかりした国家の防衛があってこそ、我々の命が守られ、平和な生活が維持される。今、力によって国際秩序が破られ、また破られようとしている。これを踏まえれば日本は、背水の陣を敷いておかなければならない。日米同盟の強化は当然であるが、NATOの目も東アジアへ向けてもらわなければならない。その為、岸田政権は鋭意、欧米と歩調を合わせ、ロシア制裁に注力している。ウクライナの人たちは、国の主権を守るため一歩も引かない強い意志を持って戦っている。台湾のサイ総統は「国家を守るには、国際社会の支持と支援以外に全国民の一致団結が必要だ」と言っている。日本も、そうでなければ世界はおろか、アメリカさえ議会が自衛隊と共に戦う決議をするかどうか疑問である。日本国憲法で、攻撃するのは米軍だなど割りきっていては、日本に未来は無い。
この頁のトップへ

[2022/04/13]
「二十四の瞳」の人生

「二十四の瞳」は、壺井栄が昭和27年に書いた連載小説である。物語は、瀬戸内海の一寒村に赴任してきた若い女先生が教え子たちに注いだ愛情と、女先生を慕う12人の子どもたちのとの心の交流が描かれている。時代背景は、多くの人が貧しさの中で生きた昭和3年から敗戦後の21年までの18年間である。貧しい海辺の村に育った男5人、女7人がどんな人生を送ったのか。小説の中ではこう書かれている。『同じ年に生まれ、同じ土地に育ち、同じ学校に入学した同い年の子どもが、こんなにせまい輪の中でさえ、もうその境遇は格段の差があるのだ』。この激動の時代に生きたみんなが、翻弄されながら厳しい人生を送ったのである。小説は昭和29年に監督・木下恵介、主演・高峰秀子によって映画化された。私がこの映画に感動したのは、まだ小学生だった。

 

貧しさの中で育った川本松江の少女時代はこうだった。12人は5年生になって本校に通うことになる。マスノやミサ子が、百合の花の絵のある弁当箱を買ってもらったのを聞いて、松江も母にねだった。だが松江の家は貧しかった。買ってあげると約束した母親は急逝する。力のかぎり泣き叫ぶ松江。松江は本校に一日登校しただけで学校を休んだ。大石先生は、百合の花の弁当箱をみやげに訪問するが、弟妹が二人もいる松江は一家の主婦をさせられていた。登校しないまま親類の家にやられることになった松江。柱にしがみついて泣いた。戦争が終わり、大石先生が再び岬の分教場に戻ってくると、早苗をはじめ、教え子たちが歓迎会を開いた。集まったなつかしい顔ぶれのなかに松江の顔もあった。松江は、先生からもらった百合の花の弁当箱を大事に持ってきていた。それは戦時中も防空壕にまで入れて守った松江の宝物になっていた。貧しく厳しい少女時代に、先生の優しい心にふれた思い出は、その後の松江の生きる支えであったに違いない。

 

片桐コトエもまた貧しかった。学校の成績はよかった。だれに勉強を見てもらう訳ではなかったが、算数はいつも満点、そのほかの学科も早苗についでよくできた。女学校へは難なく入れる彼女だったが「お母さんと6年でやめるから修学旅行へやってくれ」と約束をしていた。上の学校に行けば、家で飯炊きをするものがいなくなる。小説には『そこにはもう与えられた運命を、さらりと受けようとする女の姿があった』と書かれている。それでもコトエは、妹が学校を卒業したら、自分はお針屋へ行き、18になったら大坂へ奉公にいって、月給はみんな自分の着物を買うんだ、そしてお嫁にゆくんだ、と将来への希望を持っていた。しかし運命は過酷である。彼女は嫁に行く前に肺病になって帰ってくる。骨と皮にやせ、たった一人物置小屋に寝かされた。医者も薬も肉親のみとりさえもなく、物置の隅で孤独に死んでいった。行年22才、墓には黒っぽくよごれた小さな位牌があった。

 

 

大石先生が教師を務めたのは、12人の子どもたちを受け持った時から、その子どもたちが小学校を卒業するまでの6年間である。その内、12人の子どもたちとの関わりは、1年生の1学期と5,6年生である。わずか2年間と1学期だけの交流で、子どもたちと強い絆で結ばれた。子どもたちをそれほどまでにひきつけたのは、先生の温かい人柄にあったのは間違いない。それと“唱歌”である。真っ白な子どもたちの心の砂浜に、一気にしみ込んだのである。「おなご先生の顔、見たいな」。親に内緒で、休んでいる先生に会いに、8キロの道を、泣きながら歩く子どもたちの姿が胸を打つ。激動の時代に翻弄された人生を生きたのは大石先生もまた例外ではない。教師の職を6年間で辞めたのは、戦死させるために育てているような現実が、どうにも許せなかったのである。5人の男の子のうち仁太、竹一、正の3人が戦死している。大石先生の夫もまた戦死だった。この思想は物語全体の根底に流れており、作者・壺井栄が物語を通して訴えたいことであったと思われる。同じ小説でも、改めて読んでみると、また新しい視点で読むことができる。
この頁のトップへ

[2022/04/04]
改正少年法

成人年齢を18才に引き下げる改正民法が4月1日施行された。これに伴い少年法も同時に改正され施行された。18才、19才が犯罪を起こした場合、厳罰が科されるようになる。これまでは未成年ということで、逮捕されても裁判は非公開で行われ、実名も公表されず、ほとんどが保護処分となり、少年院で教育、指導が行われていた。しかし、今回の改正で大人と同じ刑事手続きで進められる。逮捕・起訴され裁判の結果、有罪が確定すると刑罰を受けることになる。有期刑の判決が下ると、刑の長さがこれまでの15年から最長30年になる。実名報道の禁止も適用されない。このように重大事件を犯すと、大人と全く同じ、厳しい制裁を受ける。つまり今後は、少年院という教育の場ではなく、刑務所という刑罰を受ける場所に行くことになる。

 

今回の民法改正で18才、19才は選挙権を得、保護者の同意を得ず、大人として自分の意志でさまざまな契約を結び、結婚もできるようになる。新聞には少年法改正について、原稿用紙2枚程度の意見が掲載された。その中で一番印象的だったのが『改正少年法には反対の立場だ。今回の改正はおかしい。少年のことを考えていない』という意見だった。他にも『事件を起こした者が立ち直るには自分自身で課題に向き合い、再出発を目指す前向きな気持ちが欠かせない』などが見られた。犯罪者に対し、実に寛容で温かい思いやりである。しかし『少年のことを考えていない』という意見には違和感を覚える。掲載された意見には、被害を受けた人、被害を受けた家族に対する思いやりの言葉は、一言も書かれていなかった。

 

そこでネットで、被害者の立場からの意見が無いか検索してみた。そこには実に悲惨な事件が書かれていた。未成年が起こした事件だが、ハンマーで歯を折られ、たばこの火を鼻に入れられたりと、執拗な暴行を受け、挙句の果て断崖絶壁から飛び降りろと迫られ死亡したというものだった。これが未成年の起こした事件である。余りの悲惨さにそれ以上の検索は止めた。被害に遭われた親御さんは、生まれてきた時お祝いをしただろう。幼稚園の運動会、小学校の入学では、その成長を喜び、涙したかもしれない。ようやくこれから夢に向かってはばたこうとしていた矢先である。この暴力を受けた被害者の方の気持ちはどうだったのだろうか。被害者のご家族の深い悲しみはいかばかりだったろうか。

 

そもそも江戸時代では、親の敵など、被害者側が報復する制度があった。現在の裁判という制度は、被害に遭った人の処罰感情を、国が変わって行う制度である。ところが現実は、加害者側の人権ばかりが議論され、被害者側の人権についてはほとんど耳にしない。ある時、私が飲食店で食事をしていた時、近くの席で少年院に入った経験のある少年の話が耳に入ってきた。その少年にとって、少年院に入ったことは誇らしく、勲章のようであった。途中で電話が入ると「殺すぞ」などとすごむ言葉も聞かれた。これが現実である。『少年のことを考えていない』と書いた人は『厳罰化で犯罪を減らせるという考え方は、ある種の幻想だ』とも書いている。被害者の処罰感情はそっちのけである。もし自分の子どもが上記のような事件の被害者で、その家族であったとしたら、やはり同じ意見を書くだろうか。
この頁のトップへ


雑感(目次)へ 随筆のページへ トップページへ