TOP
2020年03月へ 2020年01月へ
  雑 感 (2020年02月) 雑感(目次)へ

随筆のページへ

トップページへ

69年式・いすゞBellett 国政を考えない立憲民主党
大宰府・観梅 糸島フィル・第一回定演

[2020/02/25]
69年式・いすゞBellett
街で見かけた「いすゞ Bellett」。懐かしい名車です。69年式ということなので50年前の車ですが、見た目はほぼ新車でした。バオッバオッと排気音を響かせ走る姿にしびれました。
この頁のトップへ

[2020/02/18]
国政を考えない立憲民主党
 

立憲民主党が党大会を開いた。党の活動方針は野党の合流もしくは連立くらいのことである。今、少子高齢化、人口減少の中、どう経済を浮揚させるか。国の安全保障や外交など、重要な問題は山ほどある。しかし、立憲民主党としては、そんなことより政権のイメージをダウンさせ、足を引っ張ることの方がよほど大事なことなのである。先月29日、国民は新型ウィルスによる肺炎の感染拡大に大きな不安や経済への影響が懸念されていた。ところが立憲民主党は、衆院予算委員会で与えられた1時間半すべてを「桜を見る会」に費やした。立憲民主党としては、政権の足を引っ張るのが最優先で、国民の不安や国の重要問題など全く念頭になかったようだ。


「桜を見る会」は重要な問題を審議する国会ではなく、調査委員会などでやればいい話である。何故だらだらと質問をし続けるのか。立憲民主党の意識は「“桜を見る会”は法的には問えないことは分かっているが、ずっとやっていれば安倍政権の印象が悪くなる」くらいのことである。正義面しているが、これこそが立憲民主党の本音である。安倍首相は国会答弁でこう発言した。「大切なコロナウィルスの感染症対策や内外諸情勢という極めて重要な予算委で、非生産的な、政策とは無縁なやりとりを長々と続ける気持ちはない」。これこそが今の立憲民主党など野党のレベルの低さを言い表している。

 

問題なのは左翼新聞も同じである。左翼・西日本新聞は、それも“社説”で桜を見る会の追及は「一定の成果をあげた」と書いている。こういう左翼新聞のあおりを受けて、読者は事の重要さの判断が出来なくなっている人も多い。左翼・西日本新聞の読者が「国政の根幹である民主主義が崩れる」(2/17)などと投稿してくる。「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、みんな私が悪いのさ」という言葉がある。そのうち「新型コロナウィルス感染による肺炎はすべて政権が悪いのさ」と左翼新聞があおり、それを読んだ読者が訳も分からず「そうだ、そうだ」とはやしたてることになるかもしれない。

 

自民党の幹部が「感染症についての質問をしない感覚に驚いています」とツイッターに書き込んだ。これが正常な感覚である。ところが立憲民主党の大局観の無さはあまりにひどい。党の安住国対委員長は、今月4日の朝刊6紙を張り出した。それぞれの新聞に「すばらしい」「クズ0点」「×」「論外」「出入り禁止」などと蛍光ペンで書かれていた。評価した理由は、立憲民主党からの「桜を見る会」の質問に対する安倍首相の答弁の記事の扱いだったという。つまらん党である。これについて一部のメディアからは「報道機関への圧力である」「編集権への介入である」などの意見がみられた。これが自民党からでた話なら、左翼新聞は大々的に報道し、今頃、国会審議ストップの大問題になっている。

 

 

立憲民主党が党大会で発表したのは「支えあう安心」「豊かさの分かち合い」だったという。要するに所得の再配分である。ではその財源はどうするかというと「高額所得者の課税強化」くらいである。これは典型的な共産主義の考え方だ。立憲民主党を支援している組織をみても、バリバリの左翼である。ところが立憲民主党をつくった経緯は情けないものだった。彼らは思想信条などそっちのけで、保身のために、まったく理念の違う「希望の党」に行こうとした。しかし、希望の党から蹴飛ばされて、行き先がなくなったものが寄り集まって作ったのが立憲民主党である。今のメンバーをみれば政権交代など担えるわけがない。人材不足!!

 

そんな立憲民主党だが、国民民主党との「合流」を目指し、話し合いが行われた。立憲民主党には少し落ち目になってきた“あせり”がある。しかし、国民民主党に提案したのは、立憲民主党への吸収合併である。理念の違う党が、数合わせで合流しても、我々にはまたあの悪夢の旧民主党の再来としか映らない。破談は当然だ。旧民主党では、右から左まで数合わせの党だったので、党の綱領すら作れなかった。やる政策といったら「ばらまき」くらいの悲惨なものだった。今、立憲民主党のポスターに掲げているスローガンは「まっとうな政治」である。「どこがじゃ!!」と思わず突っ込みたくなる理解不能のスローガンである。

この頁のトップへ

[2020/02/16]
大宰府・観梅
この頁のトップへ


[2020/02/04]
糸島フィル・第一回定演

糸島フィルハーモニー管弦楽団

糸島市吹奏楽団
令和2年2月2日午後2時、伊都文化会館において「糸島フィルハーモニー管弦楽団」(糸島フィル)の第1回定期演奏会が行われた。糸島市にオーケストラが誕生したのだ。実にうれしい。昨年12月、糸島市吹奏楽団の定演に行ったときもらったパンフレットで、糸島フィルの発足とR2/2/2に第1回定演があること知った。糸島フィル誕生の初演ということで、これを聞き逃してはなるまいと楽しみにしていた。豊かな自然、豊かな食、豊かな歴史を持つ糸島市に、豊かな文化芸術がまたひとつ加わった。市民が住む身近なところでクラシック音楽を楽しむことができる。生で聞く音楽はすばらしい。オーケストラが発する振動や臨場感が直接体に伝わってくる。それを受けコンサートホールが聴衆の高揚感に包まれる。「ブラボー!!」

クラシック音楽は、100年、200年前の時代を生きた作曲家が書いた譜面を演奏する。だが、譜面に忠実に演奏する技術を聞かせるものではない。指揮者は、作曲家の心に思いをはせ、その個性をもって解釈し、楽曲全体を通して表現する。楽団員は、指揮者との信頼関係で結ばれ、全身全霊をもって応える。指揮者の手によって、各楽器から、魔法のように音が引き出される。力強く、また繊細な音の波が会場全体を包み込む。その緊張感と聴衆の高揚感と相まって、その時、その場だけの音楽が共有される。これこそがクラシックの魅力である。一方、ジャズを考えてみると、ジャズマン一人ひとりの感性で譜面のない即興演奏で作り出されていく。自由度が高く楽器ごとのソロがぶつかり合う。だがプレイヤー同士は信頼感で結ばれている。一見正反対にみえるクラシックとジャズだが、根底には同じものが流れている。

糸島市は合併後の市制10周年を迎えた。今回の定演で演奏されたのは、この節目の年にふさわしい曲目であったように思う。オープニング曲は「市民のためのファンファーレ」だった。指揮者である永野哲さんの力強いティンパニと、華やかな金管のファンファーレで幕を開けた。これに続きモーツアルト、ハチャトリアン、ベートヴェンの曲が演奏された。モーツアルトは18世紀後半、フランス革命が起き、自由・平等といった近代社会の概念が生まれ、文化が大衆に広がりを見せた時代である。そのあとに続くベートーヴェンは、古典派ではあるが、ロマン派の先駆けでもあった。新しい市民社会の夜明けと、ロマン主義の時代への扉を開けた作曲家の曲が演奏された。市制10周年を迎え、これからの糸島市にふさわしい選曲であったように思う。コンサートは、鳴りやまぬ拍手に、アンコールに次ぐアンコールだった。
この頁のトップへ


雑感(目次)へ 随筆のページへ トップページへ