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邪馬台国への道を撮るA
2003/09/15
邪馬台国
(平塚川添遺跡)
福岡県・甘木市

平塚川添遺跡
(祭殿)

平塚川添遺跡
(環濠と柵列)

大己貴神社
おおなむちじんじゃ

神話に出てくる
天の安河
最終目的地「邪馬台国」です。その地は当然、福岡県甘木市の国史跡「平塚川添遺跡」です。多重環濠に囲まれた低地性集落を特徴とする弥生時代後期に栄えた遺跡です。1992年12月発掘時、現地説明会があるというので、何はさておいても飛んで行ったことを思い出します。雨が降った後で、足元はどろどろになりながら歩き回りました。 この遺跡と秋月の間に「大己貴(おおなむち)神社」があります。数多ある神社の中でも、最も古い神社とされ、祭神は大国主命おおくにぬしのみこと(大己貴命おおなむちのみこと)と天照大神、春日大明神です。すごいでしょう。私は小学校の時、学芸会で“大国主命”を演じて以来、恐れ多くも“浅からぬ縁”などと勝手に思っているのです。 この神社のすぐそばを安川が流れています。神話に出てくる「・・・高御産巣日の神(たかむすびのかみ)と天照大御神とのおことばによって、天の安の河原に、八百万(やおよろず)の神を集めて・・・」と書かれているあの安河です。高天の原(たかまのはら)甘木は、神話と現実が交錯しています。
2003/09/06
投馬國
(吉野ヶ里)
佐賀県
「投馬國」まで来ました。投馬國は邪馬台国と同様、人によって比定地は様々です。前の不彌國までは「東行百里」とか「東南陸行五百里」と具体的に書かれており、その比定地に異論はないようです。ところが、この投馬國から魏志倭人伝の記述が変わり「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬台国水行十日陸行一月」と具体性を欠いています。この記述をそのまま当てはめると、九州をはるかに突き抜けることになります。陳寿は「魏略」を参考に魏志倭人伝を285年ごろ編集しました。「魏略」は、邪馬台国が甘木だった頃に、魏の使者の報告で作られたものです。当然その使者の報告は、方角・里程とも正確であったと思われます。ところが陳寿が倭人伝を編集したときは、すでに邪馬台国は畿内に東遷していたのです。そこで陳寿は、実際行ったことの無い近畿に、里程を書き直す必要に迫られた訳です。地図をたよりに“おおよそ”で書き込むとすれば、当然「水行二十日」等具体性を欠いた記載にならざるを得なかったと思われます。しかも、その地図も「混一彊理歴代国都之図」に見るように日本列島が南北に細長く記されているものを参考にしたのではないでしょうか。つまり、この部分に関する限り、実態に測してなかった訳です。そこで素人の独断と偏見で、投馬國の比定地を佐賀県・吉野ヶ里遺跡にしました。魏志倭人伝には「自郡至女王國萬二千餘里」と記されています。つまり計算すると伊都国から約千五百里以内に邪馬台国は在り、投馬國はその範囲内と思われます。この位置関係と、戸数も五萬餘戸とかなり大きな国であることなどから、1〜3世紀に環濠や大型建物が登場し、大いに繁栄した「吉野ヶ里遺跡」が妥当ではないでしょうか。