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File No.160731


マーラー
先日、散歩に出たついでに、近くの本屋さんに立ち寄っみた。入口付近にワゴンが二つほどあり、CDやDVDを安く販売していた。クラシックのCDもあり、その中にマーラーの5番を見つけた。それもバーンスタイン指揮ニューヨークフィルである。これをワンコイン500円で売っている。いま持っているマーラー5番は、大音量で聴くのに、車の中に入れっぱなしにしている。この際部屋でも聴くのに、もう一枚購入した。他にもシベリウスの2番で、カラヤン指揮のCDがあったのでこちらも買うことにした。私にとって、クラシック音楽といえば交響曲である。大規模編成が織りなす、細やかな、そして壮大な音の波が寄せては返す。これが何とも心地よい。クラシック音楽を聴くといっても、ほとんど知識など無いのだが、それでも交響曲ならどれでもいいという訳でもない。メンデルスゾーンはちょっと合わないかななどと生意気だが、要は自分の感覚に合うかどうかである。いまのところ、マーラー、ブルックナー、買ったばかりのシベリウスといったところである。

今、新聞で九州交響楽団のコンサートマスター近藤薫さんが随筆を連載中である。クラシック音楽の歴史を次のように紹介していた。『クラシック音楽というものは、古くはキリスト教会の庇護のもと神様を賛美し、祈るためにつくられた。バッハから少し前の時代だ。その後、スポンサーが王侯貴族に移ると、上層階級の娯楽のために作られるようになる。こちらはモーツアルトの時代。そして、フランス革命後、民衆の手に音楽は渡った。ベートーベン以降、シューマン、ドヴォルザークなどは、自分の人生の想いのほか、祖国のためにも書いた。愛国心というやつだ』。祖国のために書いたといえば、スメタナやシベリウスがそうである。シベリウスは、フィンランドでは国民的作曲家で、交響詩「フィンランディア」は、その代表的な曲である。今回買ったCDにも、これが入っている。フィンランドは、長くスウェーデンの支配下にあったり、ロシアの支配下にあったりという歴史がある。曲に込められた祖国への強い想いが、フィンランドの人々の心を打ったということだろう。
シベリウス


ブルックナー
先日放映されたバラエティ番組に、オーストリアの管弦楽団の音楽監督に就任された、指揮者・佐渡裕氏が出演されていた。この中で注目すべき言葉がいくつかあった。『"気"が入ると指揮棒が砕けることがある』。どこに当たった訳でもないのに、指揮棒が砕ける。まさにすさまじいばかりの"気"である。指揮者の曲に対する想いの強さが感じられるエピソードだ。もう一つは、指揮者と演奏者の信頼関係に関するエピソードだった。ここで詳しくは書かないが、指揮者の曲に対する想いを演奏者が表現する。そこに強い信頼関係がなければ、繊細な表現は伝わらない。楽譜通りに演奏するのであれば、指揮者はいらない。マーラーの5番のCDを比べてみると、演奏時間が違っている。バーンスタイン指揮の方は、合計時間が69分10秒。もう一つアントニ・ヴィト指揮ポーランド国立放送交響楽団の方は、74分43秒と約4分半違う。第3楽章だけでも、約2分近く違っている。これは曲に対する指揮者の解釈の違いであり、想いの違いである。そこに正解はない。それぞれが芸術である。


芸術といえば近藤薫氏がこう言っている。『芸術とはとことん非効率的にあるべきかもしれない。よい芸術性には魂が宿るというが、芸術性をもたせるには、ある種の執念のようなものがまず必要であることは間違いない』。さらに『曲に対してイメージをなるべく共有し、パートのひとつひとつが細胞のように機能して、オーケストラという大きな生き物になることが理想』だと書いている。やはり音楽界でトップを行く人の根底に流れる思想には相通じるものがある。"すさまじいばかりの気""ある種の執念のようなもの"。それが指揮者と演奏者の信頼関係をつくり、楽器の響きに乗り移り、聴衆の熱気を誘う。その会場だけの、その演奏限りの芸術が成立する。近藤氏の言う"よい芸術性には魂が宿る"である。演奏会に行って、生の演奏を肌で感じ、指揮者と演奏者の想いを感じ取るのが理想だが、年金暮らしの身としては、そうそう行くことも叶わない。せめてワンコインのCDで、思いを馳せながら聴くことが現実である。だが、そんな生活も悪くはない。
ブラームス


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2016/08/13 指揮者の佐渡裕さん オーストリアの管弦楽団と契約延長
オーストリアのトーンキュンストラー管弦楽団は、音楽監督を務める指揮者・佐渡裕氏の契約期間を延長すると発表した。佐渡氏は15年9月に音楽監督に就任し、2018年までの契約だった。これを4年間延長し、2022年までとした。延長の理由については、佐渡さんが指揮をとるようになって、表現がより多彩になるなど、楽団の評価が高まっているとしている。