古代の遠賀川流域 随筆のページへ

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File No.160502

先月、飯塚市で遠賀川流域の古代をテーマに、シンポジウムが開催された。残念ながら聴講することは叶わなかったが、資料や報道などで、ある程度の内容は知ることが出来た。基調講演は「邪馬台国の源流」というテーマで、安本美典先生が講演された。安本先生は、甘木の平塚川添遺跡を邪馬台国とされていることで知られる。講演では、古事記に登場する九州・山陰の地名が、近畿地方の6倍超に上ることなどを挙げ、「邪馬台国は九州にあった」と邪馬台国東遷説を主張された。安本先生の資料には、和辻哲郎氏の東遷説も載せられている。『和辻哲郎は、大和朝廷は、邪馬台国の後継者であり、「古事記」「日本書記」の伝える「神武東征」の物語の「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説の基づくものであろう』。この神武天皇東遷については、遠賀川流域が深くかかわっている。河村哲夫氏の「遠賀川流域における古代伝承」では地元の伝承をもとに、志村裕子氏は「神々のふるさと遠賀川」で日本の古典から筑紫を考察するなど、それぞれ詳しく検証され東遷説を裏付けている。

そもそも「遠賀」という地名だが、「古事記」「日本書記」の「神武天皇は、筑紫の岡田の宮に一年滞在した」という記述の「岡田(wokada)」が変化し「遠河」「遠賀」と表記されるようになったものだという。シンポジウム資料に地元の伝承で「足白(あしじろ・嘉麻市馬見);ニニギノミコトが足白の馬に乗って降臨した」とある。その嘉麻市馬見の「馬見神社」の由来は「神武天皇がご東征の時、ここに参拝せられ、そのご神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったともとも言われている」である。遠賀川流域から少し離れるが、以前から機会があれば寄ってみたいと思っていた神社で宗像市の「赤間神社」がある。ここの故事によれば「神武天皇が、東征するとき、この神社のご祭神が赤い馬に乗って現れ、御一行を案内された」と伝わっている。神武天皇を道案内した祭神は674年にこの地に祀られ、赤間という地名もこの伝承に由来している。シンポジウム資料は、北部九州における神武天皇伝承、ニギハヤヒ伝承、あるいは2ページにも及ぶ遠賀川・朝倉地域と大和地名の類似など神武天皇東征を強く伺わせるものが数多く示されている。


西日本新聞より
今回のシンポジウムのサブタイトルに『飯塚「立岩の大王(おおきみ)」を巡る歴史ロマンについて』とある。立岩遺跡とは飯塚の立岩丘陵一帯にある遺跡群を指す。この遺跡群の中心となっているのが「堀田遺跡」である。今回のパネリスト・高島忠平先生は8年ほど前、新聞で「地を這いて光を掘る」という105回にわたる聞き書きシリーズを連載された。この中でこの遺跡の発掘についてこう話されている。『僕が甕棺の横っ腹を見つけて急きょ始まった立岩遺跡の発掘は、最終的には十面の前漢鏡、鉄器や青銅器、南海で採れる貝輪を着けた人骨など大きな成果を挙げた。出土品は一括して国の重要文化財になっている』。安本先生も堀田遺跡について資料にこう書かれている。『1963年に発見され、65年まで3次にわたる発掘調査で、甕棺墓四十数基、土壙墓1、貯蔵穴26が検出された。・・・・特徴のある大型の棺は「立岩型」ともよばれ、副葬品の内容と特異な大型甕の優位性は、当地方における中心的指導者の存在が想定される』。この被葬者こそが石包丁で北部九州一円との交易を主導し、遠賀川流域に安定した共同体を確立させた「立岩の大王(おおきみ)」である。

「遠賀川式土器」というのがある。これは遠賀川の川床から発見された弥生時代前期の土器様式である。高島先生も「地を這いて・・・」で、『嘉麻川の岸から「遠賀川式」という弥生時代前期の土器を完全な形で見つけたことがあった』と話されている。この「遠賀川式土器」は西日本全体に分布し、初期の水田稲作の広まり方を知る手がかりとなっているという。このように、いち早く稲作が定着した遠賀川流域であるが、これに伴って稲を刈り取る「石包丁」が必需品になってくる。石包丁の材料として、立岩丘陵近くにある笠置山の凝灰岩が適していた。立岩の大王の下、嘉穂地域は石包丁で一大工業国になったのである。その商圏は福岡県、佐賀県、大分県の日田市など北部九州一円に及んだ。それは福岡市西区の今山で製作される石斧の分布と重なるという。すなわち弥生時代中期には、すでに広域の交易が普通に行われていたのである。遠賀川流域は、稲作に適した地形を持ち、石包丁の製作に適した地質を持ち、安定した豊なクニであった。だからこそ神武天皇も東征にあたって、岡田の宮に一年滞在したということなのだろう。
安本美典先生資料より


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