600号&古希&定年後満10年・記念号
   
魂活(こんかつ)
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File No.150926
今月の総務省の発表によれば、80歳以上が1000万人、65歳以上が3300万人になったという。高齢化社会は確実に進み、2040年には、65歳以上が36%になると予測されている。10年後には年間の死者数が170万人になり、2040年にはおそらく200万人を超えるだろう。これまでは家督相続による「家」を核として、寺の檀家制度によって葬儀が営まれ、地域の墓地があった。だが地方の過疎化、都市の核家族化、急激に進む少子高齢化の中で、葬送の考え方、墓制の形態も変わらざるを得ない状況になっている。家族葬や密葬、あるいは直葬などといった形態が増えつつある。もはや墓地の確保すらままならない昨今、自然に還るという思想や、後継者がいないということもあって、樹木葬や散骨、あるいは0(ゼロ)葬といったものまである。これまでの地域による葬送儀礼から、自分による自分のための葬送設計が広がりつつある。激しさを増す時代の流れの中で、これまでの葬送システムの維持は困難になり、世の中の常識の変化は当然といえる。
はっきり"死を認識"できているのは人間だけである。では霊長類の歴史の中で、いつから「死の認識」というものがあったのだろうか。猿人、原人の時代にはその形跡はない。ネアンデルタール人の時代になってはじめて埋葬をした痕跡が認められる。遺体には花が添えられていたというから、極めて現生人類の心に近いものがあったと思われる。巨大な脳を手に入れたことによって、強い絆の人間関係が出来できていたに違いない。その後に出現した我々ホモ・サピエンスは、さらに高い言語能力、知能、想像力によって、食物連鎖の頂点に立ち、文化や科学を発展させた。現在の日本文化の源流は縄文時代にある。縄文人は自然の恵みに感謝し、自然とともに生きていた。自然によって生かされ、「死」によって自然に還り、来世の再生を信じていた。縄文人たちの高い精神文化に基づく死生観は、三内丸山の環状配石墓などにも見られよう。他人の死によってつくりあげられた「死の認識」は、想像的な能力によるものであり、それこそが人間の証といえる。
細胞の中心には「核」があり、生命活動の重要な役割を果たしている。その中のDNAには、生き延びるために学習した貴重な経験が刻み込まれている。一方、巨大な脳を手にした人間は、その中心に「心」を持ち、豊かな精神活動を送っている。それは「魂」という「心」の深い根源的な部分まで認識する。輪廻転生を繰り返す魂には、心の深い部分に沈みこんだ記憶が、その都度、魂のDNAに刻み込まれていく。人間は、単なる細胞の乗り物などではなく、むしろ魂が現世に現れるための拠り所なのだ。現世における個体が終わるとき、現世の記憶はリセットされ、本質だけになった魂は個体から離脱する。離脱した魂は、決定された来世に相応しい個体を拠り所に再生する。次に用意されたその人生は最高レベルなのか、次のためのステップとしての人生なのか。その人生がどのレベルに設定されているのかによって、相応しい個体とそれを取り巻く環境を見定めるのである。これを「魂活」と言うことにする。


速いもので高倉健さんが逝って、もう間もなく一年が経とうとしている。健さんの葬送は「密葬、戒名なし、葬儀なし、お別れの会もなし」だった。どこまでも格好いい人生の締めくくりだった。私も、「延命治療なし、葬儀なし、戒名なし、墓もなし」で締めくくりたいと思っている。以前こんなことを書いた。『人間は、最終的に原子まで戻るのか、あるいは素粒子まで戻ってしまうのか。いづれにせよ中途半端に「遺骨」などという個体の一部で残るなど、私にとっては何の意味もない』。散骨にした場合、残された人が、どこに向かって手を合わせていいのか分からないとか、散骨した場所まで行って手を合わせるとも聞く。手を合わせることに、場所や距離的制約など無い。それは「心」の問題であり、それは時空を超える。ただ想うだけでいい。それで十分である。私を記憶に残す人がこの世を去れば、私は完全に現世から姿を消すことになる。私が拠り所していた個体は、いずれ原子となって宇宙に散り、離合集散を繰り返すうち、次の星を構成するほんの一部となる。


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ハヤカワ文庫SF(SF224)の「地球の長い午後」(ブライアン・W・オールディス[著]・伊藤典夫[訳])の扉にこんな詩が載っている。
   死にゆく植物が生命を養うのを見るがよい
   生命が分解し、再び植物が育つのを見るがよい
   滅びゆくものはすべて他の物を補う
   (かわるがわるに我々は息づき、そして死ぬのだ)
   物質の海に浮かぶ泡沫のように
   生れ、こわれて、その海へと帰るのだ
   -----アレグザンダー・ポープ『人生論』-----


「ハイデガー読本」(法政大学出版局)の第8章で、森一郎氏は「死」について次のように解説されている。
   ・・・・死の存在論的究明にとっての最初の要所たる各自性は、こう定式化される。「死を、各々の現存在はそのつどわが身に引き受けなければならない。死は・それが”存在する”かぎり、本質上そのつど私の死である」。・・・・「現存在はたいてい未完成のうちに終わるし、もしくは崩壊し憔悴して終わる」。このように、「終わることは、おのずと完成することを、必ずしも意味しない」。むしろ、ついに完成を意味しない終わりであるのが、死なのである。そうした終わりを孕んだ現存在の存在は、完全性という性格をもたない。 ・・・・「死でもって言われている終わることは、現存在が終わりに達することを意味するのではなく、この存在者の終わりへとかかわる存在を意味する」。 ・・・・「終わりへとかかわる存在」は、まだ終わっておらず不断に終わりつつあることがそのつど全体性をなす、という独特のあり方を示す。 ・・・・死は、各自がみずから引き受けねばならない存在可能性である。他者との関係が言うことをきかなくなるこの極端な可能性を、追い越すことは誰もできない。「最も固有で、没交渉的で、追い越しえない可能性」-----死の実存論的概念はこう素描される。


*「身」=原子 「心」=魂