邪馬台国大和説は、あり得ない! 随筆のページへ

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File No.150810


最新号
古代史の総合雑誌、季刊「邪馬台国」(梓書院)が、編集体制を新たにしてスタートした。これまでの安本美典先生による責任編集から、「季刊邪馬台国編纂委員会」によるチーム体制に変わる。1982年から33年余にわたり、安本先生個人による編集で発刊されてきた。しかし安本先生への過度な負担に依存していたことから、今回の体制見直しとなった。あくまでも安本先生の負担軽減ということであり、今後も特別顧問として参加される。新体制では、河村哲夫委員長のもと、様々な人材を発掘し、次の世代に着実に継承されるシステムを構築されるという。「季刊・邪馬台国」の創刊の原点は「何か、社会的に意義のある仕事を」という志だったという。わたしもどれだけこの本から多くを学んできたことか。「季刊・邪馬台国」は、日本の古代史における『良心』だと思っている。プロとアマチュアの橋渡しを果たしてきた「季刊・邪馬台国」の更なる飛躍を期待したい。


最新号(126号)の特集は、関川尚功氏の「考古学から観た邪馬台国大和説への疑問」である。邪馬台国の候補地は九州と近畿・大和と、遠くかけ離れている。隔たりのある地域における比較は、考古学的な遺跡や古墳の検討が有効性を発揮するという。そこで関川氏は、大和が邪馬台国の所在地としてふさわしいかどうかを検証されている。まず唐古・鍵遺跡ではこんな状況である。『中期を中心に木棺墓や方形周溝墓・土器棺墓がみられるが、弥生時代を通じて副葬品を有するものはない』。搬入土器の実態では『西は吉備、北は近江、東は伊勢湾岸地域が主な交流範囲であり、邪馬台国と関係の深い北部九州地域との関係は全くと言ってよいほど認められない』。邪馬台国の問題を考える上で最も重要なことは、大陸系遺物の移入状況であるとして『特徴的な大陸系青銅器の出土は、近畿地方の中でも特に少ない。・・・大陸系青銅製品の代表格である中国の銭貨・貨泉に至っては・・・奈良県内では未だ皆無の状態である』。



100号記念号
纏向遺跡についてもあらゆる方向から検証されている。その立地状況は『環濠をめぐらせる遺跡ではない。このため、弥生環濠集落のような防御的あるいは閉鎖的な性格はあまり認められず、むしろ開放的な立地形態となる。・・・本来的に計画的な集落とは言い難い』。搬入土器については『東海地方がその約半数を占めている。北部九州の土器は微量で、その傾向は唐古・鍵遺跡とかわることはない』。青銅器の出土状況について『総量は唐古・鍵遺跡をかなり下回っている状態である。特に漢式鏡など大陸系青銅器は出土していない。そして鉄製品も鍛冶関連遺物を除くと微量である。大陸系の遺物もわずかな陶質土器と半島南部の骨鏃を模したとされる木製鏃などで、きわめて少ない』。さらに鉄器生産技術の導入時期は、庄内末期から古墳時代の初めで、かなり新しいという。『纒向遺跡の鉄器生産が北部九州からの影響のもとで行われ、さらに半島南部の工人も加わっていたことすら思わせる』。


関川氏は邪馬台国の可能性に切り込む。『纒向遺跡の内容をみると、そこには邪馬台国として想定した場合、比較できるような遺構・遺物というものが、全くといってよいほど見当たらないことに気づかされる。つまり、纒向遺跡の実態からは、邪馬台国との関連性を見出すことはできないのである』『纒向遺跡は邪馬台国とは地域・性格、そして時代も全く異にする遺跡である』。唐古・鍵遺跡と纒向遺跡は、ほぼ同じ傾向をみせている。大陸系の青銅器の出土は皆無であり、対外的な交流は認められない。国内の交流においては、その範囲はむしろ東方地域である。大和地域の弥生墳墓においても『方形周溝墓など弥生墳墓全体における副葬品もほぼ皆無の状態で、他地域とは著しい違いがみられる』。唐古・鍵遺跡と纒向遺跡は、「魏志倭人伝」に書かれた実態とはかけ離れている。関川氏は『大和地域の遺跡や墳墓にかかわる幾多の考古学的事実の示すところは、邪馬台国大和説を否定している、といわざるをえないのである』と結論付けている。


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