奴国・多鈕細文鏡系石製鋳型
(なこく・たちゅうさいもんきょうけいせきせいいがた)
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File No.150607


多鈕細文鏡系
石製鋳型
先月27日(2015/05)、福岡県春日市教育委員会から、同市須玖南の須玖タカウタ遺跡から多鈕細文鏡系の石製鋳型の一部が出土したとの発表があった。これに伴い春日市の「奴国の丘歴史資料館」で、05/28〜06/03までこれが公開された。他にも同遺跡の竪穴建物跡から石製鋳型、土製鋳型など合計36点の青銅器鋳型が出土しており、有柄式銅剣鋳型、銅矛鋳型なども展示されていた。さすが「弥生時代のテクノポリス・須玖遺跡群」である。多鈕鏡鋳型は、長さ5.1cmの小さなもので、当初は他の出土品と一緒にしていたが、洗浄していてこの幾何学模様に気づき、さらに小さなくぼみが、鈕の穴の部分とみられ決定に至ったという。これは国産銅鏡の生産開始年代を、150〜200年遡る大発見である。出土した須玖タカウタ遺跡は、「奴国」の中心とされる須玖岡本遺跡の西200mに位置している。すぐ近くと思われ、現地を訪問したいと思ったが、私有地で、かつすでに埋め戻しがされていて、いまでは見ることができないとのことだった。

春日市教委の発表では、今回の鋳型の名称を「多鈕細文鏡系石製鋳型」としている。ただし、これはあくまでも"仮称"だという。多鈕鏡はその文様の在り方で「細文鏡」と「粗文鏡」に分けられる。今回の鋳型には、日本独特の文様「重弧文」が描かれているが、文様自体はいずれも幾何学模様である。「粗文鏡」は、紀元前8世紀から4世紀の、文様の粗い多鈕鏡、もうひとつは紀元前4世紀から2世紀の時代の細かい文様の「細文鏡」である。今回発見された鋳型は、紀元前2世紀頃のものであるから、間違いなく「細文鏡」の時代である。細文鏡を作ろうとして、素材が石だったため文様が粗くなったと考えられている。もう一つ双方の違いは「鈕の形」にあるという。今回の鋳型は、その年代、鈕の形から「多鈕細文鏡系石製鋳型」と呼称された。「重弧文」が描かれていることから、日本人の手によって、日本で作られたのは間違いない。次は、日本人の手による“仮称”ではない多鈕細文鏡の土製鋳型の発見に期待がかかる。
出土部分の位置


九大筑紫出土
中細形銅戈鋳型
須玖遺跡群の南東2.7km、「奴国」のあった地域の一角に、九州大学筑紫キャンパスがある。ここは戦後、米軍キャンプがあった場所で、返還後、筑紫キャンパスが建設された。ここもまた遺跡の密集する地帯で、建設途上で多くの土器が出土した。九州大学による発掘調査が行われ、その成果の一部が、九大伊都キャンパスで「奴国の南〜九大筑紫地区の埋蔵文化財〜」として展示されている。展示内容は、弥生時代〜古墳時代〜古代と幅が広い。この中で、弥生時代中期(紀元前2世紀〜紀元前後)の発掘成果を見てみると、日常使われる土器と、祭祀に使われたと思われる特殊な器が発見されている。発見された土坑は『日常空間(集落)/非日常空間(墓域)の境界に位置する性格が想定される』としていた。この時代のものとしては「中細形銅戈鋳型」も出土していた。キャプションには『ある程度の規模の有力集団がいたようであるから、青銅器生産地であっても不思議ではない』と書かれていた。

「多鈕細文鏡」と言えば、吉武高木遺跡との関連を考えないわけにはいかない。吉武高木遺跡3号木棺墓の被葬者は、弥生時代中期初頭、冨と権力を持ち「クニ」の王として早良平野に君臨していた。以後、日本の王権のしるしとなる「三種の神器」の伝統が受け継がれていく。このときの鏡こそが「多鈕細文鏡」である。須玖タカウタ遺跡で出土した青銅器鋳型は、弥生時代中期前半(紀元前2世紀ころ)としている。年代を考えると、吉武高木の系列が、樋渡へ受け継がれると同時に、須玖遺跡群へも、都市計画の下、集団移動したのではないか。「奴国」が工業団地として経済的な発展を遂げ、「伊都国」が政治を司り北部九州を統括していった。どちらの王にも、三種の神器という文化が受け継がれている。紀元前の小さな出土物が、歴史を書き換え、夢を与えてくれる。私のような素人は、学問的なしばりがなく、自由に古代に思いを馳せることができる。
吉武高木遺跡出土
多鈕細文鏡


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須玖タカウタ遺跡出土「多鈕鏡鋳型」展示
(奴国の丘歴史資料館)

九州大学筑紫地区の
埋蔵文化財展示

(九州大学・伊都キャンパス)