古川吉重展
(福岡県立美術館)
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File No.150309

福岡県立美術館は、前身の文化会館が建設されて去年で50年、今年は県立美術館開館30周年と、記念の年が続く。去年、耐震工事のため半年間休館したが、リニューアルオープンし、記念の自主企画展が次々開催されている。そのひとつとして今、福岡市出身の画家の回顧展「古川吉重1921−2008」が開催(H27/2/7〜3/15)されている。古川吉重氏の初期から晩年に至る作品約90点が集められ、その足跡をたどる展覧会である。県美のホームページの「・・・明快さと複雑さが同居し、理知とともに情感をたたえる古川の抽象・・・」という紹介に興味を持ち、調べていくと「死とは光の中に入っていくことなんだよ」という彼自身の言葉が残されていた。何よりニューヨークで30年、抽象画を追及し続け、認められたというその存在感である。これは何としても、どんな思想に基づいて、どんな作品が制作されていったのか、是非ともその生涯と世界観が知りたくて県美に足を運んだ。

先日、テレビの「ぶらぶら美術館」で「新印象派展」を山田五郎さんが案内していた。そこでこんな解説をしていた。『20世紀初頭に"色"を解放したフォービスムと、"形"を自然から解放したキュビスムが揃うことで20世紀の現代アートへの扉が開いた』。今回の展覧会では、戦後すぐの作品にして、すでにフォービスムや、キュビスムを感じさせる作品があった。古川氏の独立賞受賞作は「沈重な色彩、純化された様式」と評されたという。抽象絵画における"色"と"形"の追究、そこには、その画家の世界観の強い裏付けがあるはずだ。単に丸や四角が描かれ、赤や黒が塗られているだけでは、何の意味も持たない。古川氏は『いつも通るダウンタウンの道は、空ビンや屑が散らかっている。片隅で見かけたような薄汚れたゴムは、その素材も忘れられないものがあった』と言っている。そういうものを抽象画に昇華させる古川氏の感覚こそが、観るものに「理知」と「情感」を感じさせる。

左の作品は、今回の展覧会のパンフレットにも使われている「L14-2」である。古川氏の作品には、あえて具体的なイメージを与えるようなタイトルが付けられていない。無題は観る人に自由な感覚を促し、作品を通して作家の心情と、観る人の心情が交錯する。抽象画においても、行間を感じ取るような、そんなイメージの膨らみこそが真髄と言えるかもしれない。「L14-2」は、塗っては消し、また塗り重ねる。何種類もの色が絡み合い、ひとつの世界を形成していく。しかし、そのカラフルな世界(地)にも、人知を超えた何か(図)が存在している。古川氏は『一つの大きな感動に高まることがあったとしても、何か本質的に解決のつかないものが残っているような気がしてならない』と言っている。古川氏の人生をみるに、一定期間ごとに新しい次元を形成してきている。しかし、それぞれの次元はどこかでつながり合っている。「L14-2」の「図」は、本人も判然としない次の次元へのワームホールなのかもしれない。

芸術はすべてそうだろうが、ここまでというゴールはない。ポロックにしても、モンドリアンにしても、挑み続けた人生である。むしろ、満足したとしたら、作家としての生命も終わる。古川氏はこう言っている。『結局、人は、いや僕は、はっきりとしたゴールを見いだせないまま、時を過ごしているに過ぎないのであろうか、と思いながらも、平面の上に何度も色を塗っていく』。満たされない心が、更なるステップへと踏みださせてくれる。古川氏の作品は、幾何学的抽象表現、カンヴァス・コラージュ、ゴムや画布などによる表現、油彩画、「地」と「図」へと変遷していく。そして最後の作品「絶筆」に『・・・ペインティングであれ、ドローイングであれ、僕は同じことをしている』への回帰を観る。古川氏の『・・・・いつまでも漂っているような気がするのだ』という言葉が彼の人生を象徴している。言ってみれば、未完成こそが、芸術家の人生なのだ。そしてその人生は『死とは、光の中に入っていくことなんだよ』という言葉で締めくくられる。


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コカコーラの「クラシック・アートバッグ」
スーパーの店頭に、何ともノスタルジックな写真のトートバッグが飾ってあった。
コカ・コーラ(500ml)4本を買うともらえるという。
その横にこんな文章が書いてあった。
『マリリンが飲んだ。
 エルヴィスが飲んだ。
 そしていま、あなたが飲んでいる。
 コカ・コーラボトル100年。
 これからもサイコー!の瞬間とともに。』
これを読んだとたん、私はコカ・コーラとバッグを手にしていた。
私と“スカッとさわやかコカ・コーラ”、つき合いはすでに50年を超えた。