装飾古墳
  
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File No.140604
全国にある装飾古墳の8割は北部九州にあるという。造られたのは、古代国家創始の頃、5〜6世紀である。遠賀川流域には、装飾古墳で有名な国特別史跡の王塚古墳や、国指定史跡の竹原古墳をはじめとして、九つの古墳や遺跡がある。筑豊地区では、考古学への関心を高めてもらいたいということで、毎年春と秋の2回、一斉公開をしている。それも無料で現地のガイドさんが詳しい説明をしてくれる。王塚古墳は、以前行ったので、今回は宮若市の竹原古墳に行ってきた。この竹原古墳が造られたのは、6世紀終わり頃で、最後の装飾古墳とされている。石室の奥壁に書かれた壁画には、さしば、龍、人馬、波、船などが描かれている。永遠に被葬者のお供をするに相応しいものが描かれたはずだ。1500年の時を超えて、今我々がその時代の人々の心に触れるのである。
『大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山登り立ち国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ うまし国ぞあきづ島大和の国は』。これは万葉集にある舒明天皇の歌である。竹原古墳からは、前に広がる平野を見渡すことができ実に眺めがいい。古墳の傍に立った時、ふと舒明天皇のこの歌を思い出し、撮ったのが右の写真である。恐らくこれだけの装飾古墳を造って、来世へ送られたこのクニの王は、民から慕われていたに違いない。王自身が、丘に立ちクニを眺め、"うまし国ぞ竹原の国は"と思ったかもしれない。石室内からは、副葬品として勾玉、金環など装飾品、馬具、武器などが出土したという。あるいは残された人々が、いつまでも民を見守ってほしいという思いで、5mもの高さの円墳を造ったのだろうか。
竹原古墳からの眺望

蕨手文

渦巻き銀河
桂川町の王塚古墳の壁画は、非常に豪華である。それは国の特別史跡に指定されているということでも分かる。複雑にして華麗な文様が描かれている。その中の蕨手文(わらびてもん)について考えてみた。蕨手文にはいくつかのパターンがあり、その一つは確かに、形は蕨(わらび)に似ている。ただ被葬者を来世に送るにあたって、蕨手文にどんな意味合いを持たせるかである。三種の神器の、勾玉というイメージもある。だがここはもっと深遠に、宇宙を支配する「渦巻き」と考えてはどうだろうか。見方によっては、丁度「渦巻き銀河」の姿である。古代人の鋭い感性で、「渦」という宇宙の原理を感じ取り、表現したのではないだろうか。それは終わることのない永遠の命を被葬者に贈ったということなのかもしれない。
竹原古墳の壁画は、どんな風に描かれたのだろうか。古墳時代になると、筆に絵具をつけて描くようになったという。絵の具は岩などを砕いて作ったようだ。もし装飾古墳が岩絵の具で、筆を使って描かれたのであれば、間違いなく日本画の原点である。竹原古墳の壁画は、人や馬、龍のような怪獣が生き生きと描かれている。絵画というのは実にすばらしい。当時の人たちの日常が、目の前で今にも動き出しそうである。古墳の石室内に描かれた壁画は、葬送の儀式が終わった後、密封され外界と遮断されることによって1500年の時を超えてきた。入口の案内板には『この古墳を造った豪族、絵を描いた絵師、石や土を盛った人々、これら祖先の息吹を感じ後生大事に保護する必要があります』と書かれていた。
竹原古墳の壁画


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