問題だらけの教育界
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教育委員会制度の見直しが今国会で審議中である。今回の見直しは、2011年に大津市で起きたいじめ自殺問題で、教育委員会の在り方が問われたのがきっかけとなった。反省を踏まえた改革内容は、首長の権限が大きくなる。「総合教育会議」を首長が主宰し、教育方針などが決定される。教育委員会は、この執行機関となる。この教育委員会を構成する新教育長や教育委員の任命・罷免の権限を首長が持つ。いじめ問題の解決には、首長へ一元化するのが望ましいのだろうが、どんな首長かにもよる。維新の会の橋下市長や中田議員などなら、しっかり舵取りが出来るだろうが、見渡す限り情けない首長も多い。"担ぐ神輿は軽いほどいい"などと議会の言いなりの首長は、結局、教育委員会となれ合いになりそうだ。教育関係者は、何の反省もなく「教育の中立性」を口にする。いじめがあっても、学校を守るのに一生懸命の校長や教師たちは、いじめを認めようとしないどころか、自殺した親御さんへ圧力をかける始末だ。こんなバカどもでは、どんなに立派な組織をつくっても、魂が入らない。
沖縄県八重山地区の教科書採択問題で相変わらずもめている。竹冨町が、八重山地区で採用している教科書を使わず、独自で採択した教科書を使い続けているためである。これに対し、文科省は「無償措置法に違反している」として地方自治法に基づく是正要求をした。今後の動き次第では、違法確認訴訟の提起も辞さない構えである。ところが竹冨町は、是正要求に従うこともなく、国地方係争処理委員会に申し立てもせず、全くほったらかし状態である。さらに八重山地区から離脱しようとしている。この反日左翼どもは、困ったものだ。たしか、中国の侵略から領土を守るために、自衛隊を配備すると言ったら、"10億くれたら置いてやる"と言ったのも八重山地区の与那国島だった。竹冨町の教育は子供たちに、自分の考えに合わなければ、法律を破ってもいい、周りと意見が合わなくても、協調などしなくていいと教えている。ここに教育などという言葉を使わせたらいかん。
埼玉県の県立高校で、新入生のクラスを受け持つ教師が入学式を欠席し、我が子の入学式に出席していた問題が発覚した。事前に校長に申し出て、許可をもらっていたという。教師が教師なら、校長も校長である。この自覚のなさは何なのか。今や教師は、完全に労働者になってしまったのか。ましてや今回のことは、子供たちに「社会に出たら、会社の仕事よりも、私事を優先しなさい」と教えているようなものである。何より新入生たちが、どんな先生が担任になってくれるのだろうかとわくわくしていたはずだ。教師も校長も、生徒たちの視点が全く抜け落ちている。そここそが教育の原点ではないのか。埼玉県立の高校では、同様の例が他に3件あったという。教師の子供にして、親が子離れしていないのか、子供が自立していないのか。埼玉県だけでこれだけ発生しているとすれば、何の歯止めもなく、許可が下りているということだろう。大阪の公立高校では、教員が人事案をつくり、校長が追認していたという。これだと休暇の申請をすれば、フリーパスで許可が下りるのも当たり前か。
日教組の組織率は、下がったとはいえ25%ある。この反日左翼のバカどもは、国旗国歌法という法律に従わず、厳粛な式で起立せず、歌わず、規律を乱す。これが法治国家における教育者のやることか。腐ったリンゴのノイジーマイノリティは、正常なリンゴまで腐らせる。そんな中、先日、佐賀県武雄市で、学習塾の指導法を取り入れた「官民一体型」の公教育を実施するとの発表があった。武雄市といえば、書店やカフェが融合した新しい図書館の在り方を導入して大人気になった市である。樋渡市長の考えるテーマは「メシが食える大人を育てる」である。「考える面白さ」を追及する授業で、これまでの知識を詰め込む旧態依然とした教育に一石を投じる。これこそ学校教育法第51条-3「個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと」への布石となるのではないか。


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