映画「ハンナ・アーレント」を観て
映画のページへ

随筆のページへ

トップページへ

File No.140118

この映画でハンナ・アーレント(1905〜1975)という女性哲学者をはじめて知った。彼女は20世紀を代表する哲学者だという。若き日にはハイデガーやフッサールに学び、その後は政治哲学の第一人者として活動を続けた。彼女は1961年、アイヒマンの裁判を傍聴し、裁判のレポートを「ザ・ニューヨーカー」誌に連載する。アイヒマンはナチスの高官時代、600万人以上のユダヤ人を収容所に送り込んだ戦犯である。だが彼女はあくまでも冷静に、アイヒマンの人間としての本質を分析し、裁判で明らかになった事実を書いた。ところが世間はそれを許さなかった。このレポートで全世界から激しい非難を受けることになる。しかしアーレントは、どれだけ非難を受けようが、周りから友人、知人が去っていこうが、確固たる信念を貫き通したのである。映画は彼女の激動の時期である裁判の前後4年を描いた実話である。
アーレントはなぜ全世界を敵にまわしたのか。裁判に現れたアイヒマンは、それまで誰もが持っていた凶悪なイメージとはほど遠い人物だった。平々凡々として、ただただ指示された職務を遂行するだけの平凡な役人といった風だった。罪の意識などなく、流れのなかで自分の部署の仕事を事務的に処理しただけ、自発的に行ったことは何もないと発言する。この裁判を傍聴したアーレントは「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです」と分析し、これを「悪の凡庸さ」と名付けた。思考を停止した者に、善悪の判断はできない。その結果、アイヒマンは20世紀最大の犯罪者になったのだと結論付けた。しかし、極悪非道の戦争犯罪人として裁かれなければならないとする世論は、これを許すはずもなかった。
私は以前「サラリーマン根性」について書いた。最近では「食品偽装事件」というのもあった。『・・・・いつしか抵抗感もなくなり、毎日のルーチンワークに埋没してしまう。・・・・倫理観どころか、コスト削減で会社に貢献しているという(誤った)誇りさえあったかもしれない』。600万人の大虐殺に関わった20世紀最大の戦争犯罪人と、にわかには結びつかないが、その根本は同じである。「長いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」そんなことわざが示すように、要領のいい人間ほど本能的に自己防衛に走る。アイヒマンは、戦争という特殊な環境の中、しかも稀に見る独裁者の下で生きていくために、本能的に人間であることをやめたのだろう。軍の高官にまでのし上がった人間が、最初から善悪の判断すらできなかったとは思えない。それはハイデガーの言う「現存在」であるべき人間が、事物存在や道具存在と同じなってしまったということである。



アーレントが指摘する世界危機の一つに「大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうという危機」というのを挙げている。まさしくこの指摘を自ら受けることになったと言える。アメリカのテレビドラマで「リベンジ」というのがある。その中でこんなことを言う。「人生とは選択の積み重ねだと言われる。でも人生を決めるのは選択ではない。覚悟なのだ」。世界から轟々たる非難の嵐にさらされたアーレントだが、それは覚悟をもって発表したことであり、その考えが決して揺らぐことはなかった。アーレントは言う。「私が望むのは、考えることで人間が強くなることです」「ソクラテスやプラトン以来私たちは"思考"をこう考えます。自分自身との静かな対話だと」。世界中を敵にまわしたアーレントは、周囲の友人、知人すら去っていく。だが私はこう思っている。「孤独こそすべてからの解放であり、自由な思考にとって最高の場である」と。


映画のページへ 随筆のページへ トップページへ

映画「ハンナ・アーレント」

2012年/ドイツ、ルクセンブルク、フランス
1時間54分

監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ
出演:バルバラ・スコヴァ他