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File No.131031

上の表は、「季刊・邪馬台国」(梓書院)119号の特集「新・邪馬台国東遷説」(執筆・安本美典先生)に掲載されたものである。表を見て分かるように、邪馬台国時代の遺物の出土は、福岡県が突出している。しかし、今回安本美典先生が問題にされてるのは、近畿地方4県の出土状況である。明らかに奈良県より、京都、大阪、兵庫の出土が多い。京都、大阪、兵庫の方が、奈良県よりはやく、北部九州の文化が入っていたという証拠である。つまり先生は『奈良県は、「魏志倭人伝」の記す邪馬台国文化の「空白」の中心地である。大阪府よりも、京都府よりも、兵庫県よりも後進地である』と述べられている。表は「鉄鏃」と「魏晋鏡」を掲載したが、この他「弥生時代の鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈」や「貨泉」の出土状況も全く同じ傾向を示している。これが「新・邪馬台国東遷説」の根拠のひとつとなる。

さて、その「新・邪馬台国東遷説」であるが、饒速日の命(にぎはやひのみこと)による邪馬台国勢力の東遷を「第1次邪馬台国東遷」とし、神武天皇による東遷を「第2次邪馬台国東遷」としている。従来、語られなかった「第1次東遷」というところに「新」がある。それは「日本書記」などで語られる饒速日の命の東遷(「天磐船(あまのいわふね)」に乗って国の中央に降臨)が、物部(もののべ)氏の東遷という史実を指しているのだという。饒速日の命は、物部氏の祖先であり、かつ、その出身は福岡県の直方市か鞍手郡あたりらしい。遺物の出土状況は邪馬台国の時代、近畿地方に邪馬台国文化の存在を示し、それはつまり「第1次邪馬台国東遷」を物語っている。一方、饒速日の命は近畿式銅鐸や三遠式銅鐸など、その土地の文化も受け入れたとしている。それは銅鐸の銅原料が、北九州に分布する小型ぼう製鏡や、広型銅矛、広型銅戈と鉛の同位体比がほぼ同じだからである。こうして第1次東遷は地域の文化を受け入れつつ、大阪を中心として京都、兵庫に北部九州の文化がもたらされたのである。この後、神武天皇による「第2次邪馬台国東遷」がなされ、四世紀に奈良に都が築かれることになる。



安本先生は近畿説に対して『もう、インチキはやめよう。たとえば「女王国=纏向説」の根拠などは、なにもないのだ。あるのは、しかるべき学者や機関などの、過剰なマスコミ宣伝だけである。「畿内説」は、内容の空虚な張子の虎、空中に浮いた楼閣である』と書かれている。奈良県から出土した鏡(上表)のうち、四世紀の可能性の高いホケノ山古墳から出土した鏡を除けば、出土数は「ゼロ」だという。邪馬台国の時代、奈良に文化の存在を示す証拠は何も無かったということがよく分かった。三世紀の奈良県は、近畿地方の中で、文化というものから一番取り残された地だった。だから近畿説の“学者もどき”どもは、むりやり証拠をねつ造する。「ああ言えば、こう言う」、ウソにウソを上塗りしていく。事実に真摯に向かい合い、真実を探究する姿勢のかけらもない。
今回の119号の中にあった、畿内説の“学者もどき”どもを言い表した“小見出し”を紹介する。
「かすったら畿内説」「風が吹けば邪馬台国」
「マスコミ発表あって、証明なし」
「アマチュア研究家よりも、レベルが低い」


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