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File No.130918
福岡市博多区の「旧博多部」の電柱に「歴史看板」が設置してある。これは"街おこし"に取り組んでいる市民団体「ハカタ・リバイバル・プラン」が、2008年から実施しているものである。旧博多部には多くの歴史遺産が残っている。それは古代から途切れることなく続く繁栄の遺産である。古代においては奴国として、中世においては、遣唐使が出港する拠点として、その後も日宋貿易、日明貿易によって栄え、多くの豪商が誕生した。いにしえより大陸文化を受け入れてきた国際都市、それが博多である。

以下、「歴史看板」を少しだけその内容を紹介してみよう。

下呉服町(当時の町名・金屋町横町)
博多で一番古い石屋さん 
国松家 初代藩主黒田長政は、多くの石工を集めて、朝鮮で攻めあぐねた晋州城を手本に福崎に築城した。またその防備の一環として城下の外にある博多の町の東側にも15の寺院を移転させてずらりと並べたりしたので、博多は、石屋さんの多い町になった。その中にあって享保2(1717)年の創業以来三百年にわたって国松家は代々、太宰府四王寺山の三十三観音をはじめ、東公園亀山上皇像台座、承天寺御饅頭所之碑、東長寺五重塔基壇など博多でも著名な石工事を数多く成してきた。そして今、日本で最も古い石屋さんの一つにかぞえられる。

もう、いいかい? もう、いいよ〜 隠れ切支丹もびっくり!源氏の追討を逃れて五百年!!!
寿永四(1185)年3月24日壇ノ浦の合戦に敗れ、残った平家一族は、源頼朝の追討令の下、厳しい追及を逃れ、九州各地に隠れ潜んだ・・・。530年後、隠れていたひとりの平家の末裔が「もうそろそろ、大丈夫やろう」と博多の町に恐々出て来て、享保元(1716)年官内町で茶の商いを始めた(現・光安青霞園茶舗)。しばらく経っても、源氏の追討使?も何も来ないので、「国松さん、もう、よかごたあるよ」そこで国松善兵衛も席田郷(現・板付空港付近)から出て来て、享保二(1717)年金屋町横町で石屋を始めた。


「ハカタ・リバイバル・プラン」が推し進めるプロジェクト名が「はかた博物館」である。このプランは、その発想、そのスケールの大きさに驚く。それは旧博多部を中心に、町全体を博物館にしてしまうというユニークなものである。電柱に豊かな博多の歴史を掲げ、古きよき博多のにおいを感じながら散策してもらう。歴史看板を見つけるごとに、「へえ〜」「なるほど」とうなずきながら、ゆっくり回るのである。ハカタ・リバイバル・プランいわく「街全体がガラス無しの、世界最大の"はかた博物館"」と胸を張る。


下呉服町;当時の地名・竪町下(たてちょうしも)
竪町を造成、博多に尽くして四百年 竪町下 遠藤家

1600年、長政入国に従って、京都より博多へ。??業を営んだ遠藤家は、私財を投じて石堂川河岸工事で竪町(たてちょう)を造成。(その功によって、竪町の間口税=固定資産税は永代免除となる)初期の博多年行司を務め、以後四百年にわたって博多の発展に尽力。現存の遠藤邸は250年を超える。
 (尚、??業 としている部分は、丁度そこに穴があけられて読めなかった文字)
[竪町]町名の由来・・・・御笠川沿いにある町。かつては「龍(たつ)の口」と呼ばれる箱崎と博多を結ぶ出入り口があり、読みが似ている「立町」から「竪町」と町名が変わった。

大博町(当時の町名・旧柳町)
「くちなしの花」日本のサン=テグジュペリ宅嶋徳光中尉の生家跡
宅嶋徳光少尉(当時)は、海軍での一年半の間日記を綴っていた。それを家族が、生家の庭に咲く彼の愛した花から「くちなしの花」と題して自費出版。「きけわだつみのこえ」など多くの書籍に掲載され、同世代をはじめ多国籍の人々に大きな感動を与え英訳もされた。さらに「くちなしの花」はテレビ・ドラマや芝居になり、美空ひばりも唄ってレコード化した。ちなみに俳優の渡哲也が歌ってヒットした「くちなしの花」も奇しき縁で、この題名から採られている。

中呉服町(当時の町名・官内町)
「根付」は江戸時代の生活工芸品で、世界が認めた芸術品
享和元年(1801)川端生れの中村仁平利満は、市小路の牧牛軒中村利治に彫刻を学び、松下音満中ノ子吉兵衛と共に、博多根付の名人と称され、屡々藩命を請け「根付」を製作し賞を受ける。元来、利満は永蔵附の黒田藩士であり、「弾正縄(だんじょうなわ)」を考案して、ロスの多かった米俵のパッケージングを改良して、筑前米の販売促進に大いに貢献した。大隈言道の門下生で野村望東尼と同門。文久三年(1861)没。ここ選擇寺(せんちゃくじ)に眠る。
[官内町]名前の由来・・・唐津街道で御笠川を越えて、博多に入る最初の町。官内町に昔、太宰府の官人(役人)が守衛する館があったため、後に「官内」と名付けられた。福岡藩の防衛戦略で石堂橋周辺には、寺が多く集まる。兵員や武器を集めるのに寺の境内などは好都合だった。



この「はかた博物館」プロジェクトは、福岡広告協会から「地域社会に密着し話題になった社会性のある、感動と共感をもたらした広告及びキャンペーン」という評価を受け、2009年度に表彰されたという。その賞は、「はかた博物館」の企画表彰のために初めて設けられた賞というから、いかに評価が高かったかが分かる。だが、この企画の質の高さにも関わらず、それに見合った知名度があるとは言い難いのではないか。タクシーの運転手さんに聞いても、「あー、何かあったよね」程度である。このすばらしい企画の知名度をもっと広げて、観光客に楽しんでもらいたいものである。



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